当たり前を当たり前にしなくてもいいっていう当たり前
20200914
昨日ひさしぶりの友だちと話をした。
早稲田大学繊維繊維研究会がきっかけの面々。4,5年ぶりとか、10年ぶりに近い人もいた。
みな女性で、それぞれ年齢をかさねていた。結婚だったり子育てだったりに、気になることが多くあるみたいで、妻と娘と犬と僕との間柄について話を聴いてもらう感じになった。
(僕は定期的に女性しかいない会に、男一人ポツンと参加することがよくあったりする。それもあいまって奇妙な懐かしさが半端じゃなかった。)
ツラツラと話す。
・妻とのつきあいは結婚前から長かったから婚姻届の提出におおきな変化はなかったこと
・子どもの出現が夫婦の関係を一気に生臭いものにしたこと
・妻が子育てに苦しんでいることでやっと父親としての自覚がでてきたこと
・夫婦間、昔から仲良かったと思うけど、子どもの出現による生臭さをへて、今が一番ここちよい関係でいられること
などなど。
他にも思いつくままに話して、いろいろレスポンスもらって、をくりかえしていた。
妻と僕と、それから娘との関係を、あらためてふりかえるありがたい機会だった。
ああだこうだと、自分たちの親との関係なんかに話題は移る。
僕はういとどうありたいかなあとボンヤリ考えていた。
親から子どもへの教育は、親が教えを授けようとしようとしまいと、結果的には勝手に子どもは授かってしまう。
父母の日々の姿すべてが伝染して、当たり前なこととして形づくられる。
何も教えようとしなくても教えられるっていう、すばらしくもおそろしい事態。
当たり前は常に浴びせつづけてしまっている。その前提で娘とどうむきあうか。
と、考えて、
「まあ、娘がやりたいように、ここちよいままに、生きてくれるとうれしいですね」
ってくらいしかないかなあとなる。
そのために聴く。
日々発せられる声も、聴いて返ってくる声も、声にならない声も。耳を傾ける。
あと意識的に伝えたいことがあるとすれば、「ここでの当たり前なことは当たり前じゃなくてもOK!」ってくらいか。
当たり前を当たり前にしなくてもいいっていう当たり前。
ういとどうありたいか、とか言ったけど、そうじゃなかったくさい。
愛おしく憎たらしい娘を、僕がどうまるっと受け容れるか。
それだけだったっていう話です。