象牙海岸
夏の終わりの台風の夜、三年前に別れたおとこから電話があった。
「おれだよ、わかるかい」
おとこのその名前。どこまでも調子のよい話し方、低くかすれた声に、懐かしさがこみ上げる。でも、よりによってこんな不安な嵐の夜に突然の電話なんて…。忘れているふりをした。
「誰かしら」
「あいかわらず、あなたは冷たいね」とおとこは笑う。
そのケータイからの馴染み深い笑い声が、わたしを連れていく、あの夏へ。あの遠い海へ。そう、それは海岸沿いに、雪崩れる夏雲から始まる光景。蜃気楼の砂浜に、立ちすくむ影の映像が見える。おとこの白のラルフローレンのポロが、日差しを受けて眩しく、わたしは思わず目を細める。その残像を忘れていない…
その入江は、賑やかしいサーフィンビーチから、離れたところにあるちょっとした海岸で、ふたりの秘密の場所だった。おとこが仕事用に借りている部屋の裏の森をすこし歩くと、そこに出ることができた。あの日、午後の強い日を避けるために、訪れたおとこの部屋で、わたしたちは魚のように戯れた。そのあと、後ろめたさを波で流すかのように、はじめて入江に連れ出された。
数日前の、そう、今夜のような台風が、日本列島を駆け抜けたあと。波打ち際にはさまざまなものが、打ち寄せられていた。
大きな流木を避けながら、わたしたちは歩いた。
おとこが言った。
「ここは特に海流の関係で、いろんな海の漂流物が流れ着くんだ。、家庭用冷蔵庫とか、ハングル文字で書かれた洗剤容器とか。あと多いのがほら、あれ。流木とかね。とくに流れ木は多いね。どこから流れてきたのか考えると、案外楽しい。ほらあそこ、砂の谷間にいくつもある流木なんか、先が鋭く尖っててまるで象牙みたいじゃないか?」
視線を向けると、砂丘の下のほうに、大量の流れ木が点在している。それらはおおきく長く、枝先が弓のように湾曲していて、ほんとうに立派な象牙のように見えた。
「遠くの海で、アフリカの密輸品を大量に乗せた海賊船が座礁してね、流れに流れてこの海岸まで辿り着いたんじゃないかって。そんなふうに空想すると、楽しいだろ?だからおれは、勝手にここを、象牙海岸と名前までつけたんだ。いろんな世界中のものが、人知れず流れ着く海岸さ、象牙だけじゃなく、すべてものが流れて辿り着くんだ、要らない思い出とか、いまはもう失ってしまったものとかが、漂着する海岸さ」
とおとこは笑った。
そう、象牙海岸。覚えている。すべての思いや失くしたもの、恋情さえも流れ着く最終の海。
わたしたちは、象牙の林立する砂浜を歩いた。履いていたパンプスを脱いで、素足で歩いていく。多くの流れ木は途方もない時間のなか、潮で洗われ白化し、動物の骨のように光沢がある。わたしは波打ちぎわで、両腕を広げて海風に打たれる。足で水を掻き、飛沫が白く光る。それをなんども繰り返す、まるで岸辺で踊るように。
おとこも水のなかへ入ってきて、ずぶ濡れになりながら、わたしたちはまた魚のように戯れる。
砂浜に上がると、おとこは言った。
「いつかあなたの息子を連れてきなよ、おれ、サーフィン教えてやるからさ。波乗りしてるとさ、学校でもイジメられたりしないよ、きっと」
とおとこは言う。
「そうね、いつかね」とわたしは言いながら、おとこを見るのではなく、遠く沖を眺めている。
そうやってわたしたちの関係は、あの夏から、はじまっていったのだった。
あれから。わたしはその時の波間を、あの象牙海岸の流れ木のように、生きてきたような気がする。おとこと別れてから一度、あの海岸を訪ねてみたい衝動に、駆られたことがあった。だけど、どういうわけか、その海への、おとこの部屋から、裏手の森を抜ける小路とか、その道順さえも憶えていないのだ。まるで記憶の彼方に、流れ去ってしまったかのように。夢の中で見た風景のように、遠いのだ。おとこが買ってくれたビーチドレスも、二度と着ることはない。
「あいかわらず、あなたは冷たいね」とおとこは笑った。
台風で風が、大きな音を立てている。今夜、列島を抜けていくのだ。
「**君はもう、高校生になったんだね」と、おとこの声がかすれる。
「そうよ、来年大学受験なのよ。でも少しは大人になったわ、こんな不安な夜は、彼が案外頼りになるの」
外の樹木が、激しく揺れている。沈黙のあと、おとこが言う。
「おれさ、9月のはじめに結婚するんだ」
そのとき突風が立ち、窓が揺れる。
「そう」
横殴りの雨が窓を打ち続ける。
でもさ、とおとこは言う。いまでも、おれはあなたとことを愛している、あなたを忘れることなんか、けっしてできないだろうと。だけども、そう。わたしには分かっている、過ぎ去った時を、埋めるものはもうないのだ。いつかのわたしたちの想いは、あの海岸に流れ去ってしまった。
すべてのものが流れ着く、思い出や失ってしまったものが、漂着する海岸に。時が追慕を、風化させていく。遠い夏、遠い海、わたしのなかの象牙海岸。
雨が窓を叩きつづけていて、今夜台風が、わたしを通過する。