ななちゃん 第一話
「なっちゃん!こっち来てくれる?」
「はーい!」
夏子は元気よく返事をした。
自動車工場整備の朝は早い。
8時半から出社しているけど、親方(社長)は7時くらいから仕事を開始している。
まぁ親方の実家が工場兼会社なんだけれども。
東京のお嬢様大学を進学した私が、故郷の徳島の、しかも自動車整備工場に就職したのは、それはそれは非常に長い話を語らなければならない。
それは私の名前にもある、ある暑いとても暑い夏の日のことであった。
東京の大学に進んですっかり東京人になった気でいた大学三年生。
就職活動を開始して、あまりにも行きたい就職先が見つからなく、いや採用される気配すらない会社説明会を聞きに歩き回っていた日々にうんざりしていた頃である。
リクルートスーツを部屋に脱ぎ捨て、冷蔵庫から1缶のビールを出して、冷蔵庫の扉を締めるより早く、ビールを開けて喉を流れる黄金の至福を楽しんでいたとき、携帯が突然鳴ったのである。
「なぁ夏子?今年の盆は徳島に帰って来んのか?」
珍しく父親の晴臣(はるおみ)から電話があった。
「どないしたん?父さんから電話なんて気色悪いわ。」
「えーやないか。去年は帰ってきたけど、盆前に東京に帰ってしもうたやなか。かーさんが寂しがっとるけんな。」
夏子はビールを流し込みながら「でも私、帰るお金なんてないわ」
「旅費のことなら心配せんでええわ。婆ちゃんが出してやるって。」
未だに婆ちゃんを頼っている父に、なんとなく残念な気持ちになりながらも、久しぶりに徳島の風を感じたくなった。
「わかったわ。早くても二、三日後だけどえーな?」
「えーよえーよ。お前の部屋はそのままやから。いつもでえーよ。」
「あれ、美咲が私の部屋使うんじゃなかったの?」
その一言に電話先は何故か沈黙になった。
「…なっちゃん?」母さん、美雨子(みうこ)の声だった。
「どしたん?父さん黙って?」
「実はその美咲の件で夏子に相談したあいことがあるんよ。」
母さんが静かにものを言う時はかなり悩んでいる時である。
「母さん今から帰るから、車で空港までに迎えにきてな。」
私は口にその言葉を出しながら、旅行バックをクローゼットから引きずり出していた。
帰省の荷物はすぐにできた。よそ行きの服以外なら実家にあるし、誰に会うわけではない。その時はそう思っていた。
平日の夜は飛行機も空いているらしく、羽田に向かう電車の中で携帯でチケットとの手配をすると、1時間後には徳島行きの飛行機に乗っていた。東京湾の夜景は素敵だったが、夏子の目に映り込むだけで、夏子は思案を巡らせていた。
「まあ、考えてもしょうがない。出たとこ勝負やな。」
阿波踊り空港に着くと、母が迎えに来てきてくれていた。
「なっちゃんお帰り。飛行機揺れなんだ」
心配性の母はいつも気流の心配までしてくれる。
「今日は大丈夫やったよ。」夏子は笑顔でそう答えた。
空港からは母が乗ってきた車で自宅まで帰ることになっていた。
「あれ?車変えたん?なんか豪勢なクルマやない。」
前は軽のバンだった。それがトヨタの最新ハイブリット車になっている。
「そう、これなぁ。美咲なんのよ。」
なんか意味深な言葉に、夏子は何かが分かったような気がした。
数ヶ月前に美咲に急なお見合い話がきていた。まだ大学1年生の美咲には早すぎる話であった。私には何にもないのにと、その話を聞いたときはムッとしたが、そのお相手が30過ぎと聞いてちょっと気持ちが引いてしまった。街コンとまではいかないが、大学生になったばかりの美咲が大学のサークルのつながりで参加した時に、あるお坊ちゃんグループと一緒になり、連絡先を交換をしたのが発端だった。美咲に目をつけた人が、本人にではなく、父の会社の役員経由で話があり、お見合いまで発展したのであった。
美咲も最初は嫌がっていたが、お坊ちゃんの華やかな生活に憧れがあったのか。「嫌でないかも」と言い始めていた。
「なっちゃん。この車みて分かったでしょ。お見合いした、阿部さんからの美咲へのプレゼント。」
「。。。ねぇ母さん。私、美咲のノロケ話を聞きに帰ってきたんじゃないんだけど。」
「そういうと思ったけどな。ちょっとノロケだけでもないんよ。阿部さんご本人はなぁんにも問題ないんやけどな。」
「なんか嫌やな。親族に変なんがおるっちゅう奴ちゃうの?」
「なっちゃん。東京に行って冴えてきたんちゃう?」
「母さん、それ褒め言葉になったないわ。」
実家に帰りながら母は美咲の話をしてくれた。
どうもアベちゃん(親しみを込めてアベちゃんに)にはお姉さんがいるらしい。アベちゃんより4つ上。しかも独身。独身が悪いわけではないけれど。弟と美咲が結婚するという話をどこかで聞き入れたのか、最近妙にチャチャ入れをしてくるらしい。簡単にいえば、美咲が阿部家の財産目的で結婚しようとしているとか何とか。
夏子は母の要約された話を聞いただけで腹の中が煮え返る程であった。
「な!何様!!」
「なっちゃん。向こうは上様よ。ほんと。」
「母さん悔しくないの?」
「母さんも本当は悔しいんだけど。美咲がねぇ。」
「どうしたの?落ちこんで部屋に閉じこもっているとか?」
「その逆。父さんと一緒。逆境が好きというか。余計に結婚に前向きになってしまって。今ではアベちゃんラブとか言ってる始末よ。」
父の性格はよく熟知していたつもりであったが、美咲もそうであったとは。夏子は助手席で頭を抱えてしまった。
結婚自体は悪くない。本人たちの問題であり、それに美咲が幸せになってくれるならそれでいいのである。
「なっちゃんは、その、相手とかいないの?」母はいつも慎重である。私の感情を逆立てしないようにゆっくりした口調で話してきた。
「うん。今はいないよ。最近別れたばっかり。」
実は彼氏なんていたこともなかったが、この歳で彼氏もいないのも何とも言いがたく嘘をついてしまった。
「ふーん。そうなんだ。じゃぁ丁度よかったかも。」
逆に夏子が面食らった。
「母さんどういうこと?」
「なんか私もよくわからないんだけど。美咲が私が先に結婚するのはおかしい。お姉ちゃんからだって言って。アベちゃんにお友達紹介してって言ってしまって、なんとお見合いの話がきてるんよ。」
夏子は絶句してしまった。
「母さんそれって。美咲のことではなく。もしかして、私のお見合いの件で徳島に呼び戻したの?」
「あ。ばれた?」
母はにこやかに夏子にそういった。
母の性格はよく熟知していたつもりであったが、母は戦略家であった。
「で、お見合いつなん?」
「さすが、なっちゃん。いい感してるわ。明日にしといたわ。」
「えー?服ないよ私。普段着しか持ってきてないし。」
「明日は、駅前の新しいホテルにしてるんよ。なんと服もコーディネイトしてくれるんやって」
「なんでそんなに急いでるん。普通段取りって問題あるでしょ。」
「その相手の方がな、お見合いの翌日に仕事で海外にいかなあかんのやって」
「むちゃくちゃやん。私が今日帰ってこんかったら、成立してないでしょ。」
「そん時はな。実は別の人が用意されるらしいよ。」
夏子はあっけにとられてしまった。追い討ちをかけるように母は喋り続ける。
「アベちゃんが張り切ってるんよ。美咲がその気になってくれてるからな。」
「でも母さん・・・私」
「わかってる。ちゃんと断ってほしいんよ。私が言っても話を聞く美咲じゃないこと。なっちゃんならよくわかってるでしょ。」
夏子には何も言えず、助手席に深く座り込んだ。
明日は長い1日になりそうだ。