旧ブログからの転載 エヴァ破 当時の感想
「破」によるファンの常識の破壊
序は素晴らしい作品だった。
Blu-rayの序も素晴らしかった。
そして破の公開だ。
公開間際、映画館に行こうとする自分の脚は遅い。
結局、序は少しの変化はあったものの、大きくは変化していない。
次回予告で新型エヴァ、新キャラのマリといった話題性もあったが、その予告内で三号機、ゼルエルらしき姿が確認された。
ああ、大筋は「アスカ、来日」から「男の戦い」までか、と思い、いくらシナリオが変化してもある程度の想像が脳内によぎり、自分の期待をこの映画は裏切ってくれる可能性はあるのだろうかと疑問を抱いた。
いくら序がすばらしかったとはいえ、内容はTVと大差はないのだ。序は現代にあったフォーマットに仕上がり、アニメ表現として新しいものがたくさんあった。
劇場に足を踏み入れて、もし、TVと同じような展開やシーンが流れ、序のような仕上がり程度ならば絶望の気持ちに打ちひしがれるかもしれない。
まるでマタニティブルーである。
そんな不安な気持ちのまま劇場に足を踏み入れたが、案ずるより生むが安し、といった気持ちでいっぱいになった。
ただしくはそんな気持ちの変化の隙間すら与えてくれることのないジェットコースタームービーだった。
物語の変化を求めていたのか
私は以前にも書いたとおり、熱狂的エヴァファンだと自覚しているし、ファンの中で賛否両論であった旧劇場版肯定派だった。
いま、主流なのは(ネットでエヴァのスレッドを軽く見る程度では)否定派の意見が多く、庵野監督への非難、揶揄が多く、それに対して特に反対することはできない。私なぞ、その反対理由に納得し、その意見を飲み込んで、なおすきなのだ。
あそこまで堕ちすぎて病みきった世界を映像世界で描き出し、スタッフの悲鳴と同調するように壊れたシンジと監督の意見は強く響くメッセージ性の強い映画だった。
それがあったからこそ、「あれから十年足ったのにお前なに焼き直ししてんの? 過去に劇場版に迎合したファンを冒涜しているのか」と序では思いながら監督の心境の変化を感じ取り、面白かった。
破はその変化が、物語を変化させた。
その変化は序盤からマリという異物、見たことのない使徒、見たことのないエヴァ、初めて現れたネルフのほかの支部は箱庭的だった旧シリーズ世界から世界観の広がりの提示と同時に、圧倒的な変化をあの序盤の五分前後に詰め込んだ。
その場所には見覚えのある男、加持リョウジが聞き覚えのない言葉でひょうひょうといつもどおりの行動をしてマリと互いに利用しあう汚い大人と大人を利用することに罪悪感をほんの少し感じる少女の対比として描かれているのは物語の引き込みとして緊張感と期待にあふれたシーンの連続であった。
物語の変化は使徒が第三新東京市に来襲し、これを撃退するというウルトラマン的なテイストからの変化はないにも関わらず、人物、描写、展開にいたるまでベースはTVシリーズでありながら別物へと変化していく。
物語自体の最終展開は序盤はTV中期の明るいロボットアニメ的なエヴァから後期の悲劇の連鎖、そして旧劇場版のクライマックスまでの展開をすべて破は成し遂げている。
この密度はいったい何なのだろうか、三部作ならば旧劇場版と違う結末、違う展開、新たな結果を急+?にもってくるべきではないのか、今回の展開は中期の結末でありゼルエル戦で終わらせるべきであり、次回はそれ以降の、もっとも修正したい後期精神病患者群の苦しみぬきながら同時に壊れていく世界を救う話を描くのではないのだろうか。
作品的にも注視してみれば、アスカの心境の変化は旧TVからの欝なアスカからの脱却(加持による崩壊を避けるため加持がアスカにまったく関わっていない)、同時にアスカ自身の人格や立場を変えてはあるものの、自分の精神に決着をつけたこと(残念なことに例の事件直前だが)。この時点で事件がなければアスカはTVより先の、自分に対してコンプレックスが消えた一人の少女として歩いていける可能性を提示している。
レイの変化もまた同じだ。ZガンダムクライマックスでカミーユはTVでは「消えてなくなれ」とシロッコに叫んだが、新劇場版では「女たちのところに帰れ」と変化している。これと同じくレイもまた、戦う理由を組織や言動に対してではなく、心はシンジに、そして友人やアスカに対する気配りまで見せている。
レイが人間に近づくことが二人目の最後である「涙」よりさきに現れ、「涙」同様にレイはシンジの前から消える。
同様に大人たちも変化し、少しだけ優しくなったのが新劇場版だ。
旧劇場版の最後にいたるまでシンジは現実に徹底的に打ちのめされ、知りたくもない、つらいことばかりを知り、孤独にさいなまれ、人を信用できず、守るものもなく、最後に信じたものを自分で壊し、無気力になる。最後に少しだけ見せた勇気も自分では解決不可能なことばかりで絶望的な現実と別れと死だけがシンジを苛み、初号機は神になり、世界を溶かした。
今回は最後にシンジはアスカの不幸とレイの不幸を見て、現実に打ちのめされながらもレイを救う、自分が救えなかったアスカがいるからこそ立ち向かい、旧TVと同じく、いやいやながら第三新東京市に向かい、守るものを求め、信じるものを求め、それに呼応するように初号機は神に至り、シンジにとっての救いを実現する神となった。
今回の劇場版の最後の感動は序の構造と似て非なるものである。
序はあくまで自分の存在理由もわからずに不器用に前に進むという現実との戦いが描かれた。
今回は自分の存在理由を知り、理不尽に立ち向かい、現実に打ち勝った。
どちらも少女をきっかけに前に進めたからこその感動でありながら今回の感動は旧劇場版を見ていれば、より深く感じることが出来る作品だろう。
前のシンジ君は頑張ったけれど、駄目だった。ファンですら認めてくれないけど頑張った。
今回のシンジ君は頑張って勝ち抜いた。それは誰もが認めることではない。
旧劇場版の頑張ったけど駄目だったシンジは残酷なまでに現実的な姿だ。最後の「気持ち悪い」はどれだけ頑張っても認められなかった人たちの振り絞った声なのかもしれない。
頑張って結果を出せること自体、稀だし、夢をかなえることはできない。簡単に夢をかなえること、それから逃避して夢がかなわないことを認めない人を「気持ち悪い」と罵った側面もあるように今回の映画は感じられた。(それはあくまで今回の映画から感じられることであり、旧劇場版単品ではまったく違った解釈だろうし、庵野監督の当時を知ればさらに違った解釈もある)
今回の映画は見ていて恥ずかしいほどに、最後にシンジの夢は叶った。
陳腐かもしれないけれど、努力や苦労をして報われないより、報われたほうがよっぽど気持ちいいのだ。
努力して受かったものは嬉しいものだし、それが叶わぬほどの願いだったとしても、それが叶ったシンジを見ての感動は圧倒的なまでに救われなかった過去作品があるからこそ最後のシーンは泣けるのだ。
今回の映画が、旧劇場版のシンジを求めた人にとって、失敗ばかりのシンジではなく、成功しているからこそ受け入れがたいのだろう。
私は旧劇場版が好きなだけに、今回のシンジを好む人、嫌う人の気持ちがわかる。
自分たちの生き心地の悪さをある種、代弁してくれるのが旧劇場版であり、少しでも人と理解しあえた喜び、成功した喜びを共有できるのが新劇場版だ。
私自身が旧劇場版から人間として成長していると信じたいからこそ新劇場版のシンジを肯定したい気持ちが強い。
今回のエヴァの居心地の悪いほどの気持ちよさは成長を頭から叩かれていく辛さを描いた旧劇場版とは大筋が同じ物語でありながらの変化だからこその気持ちいい映画なのだ。
異物のマリとはなんだったのか
マリは登場から、最後に出てきたシーンまで本人のキャラクターがふわふわしていながらも地に足はついているイメージだった。
シンジやアスカにケンカを吹っかけるキャラクターでもなく、人物の間に入りながら人間関係を壊すこともなく、その行動は外の世界の住民のようだった。
序盤の登場シーンからしばらく銀幕に姿を現すことなく第三新東京市から離れた存在でありどこか夢見心地な部分があった。
序盤は彼女の性格を疲労した場所であり、最初にシンジの前に現れたときは異邦者として、匂いという動物的な感性を口にする肉を持ったキャラクターとして描かれた。(胸の肉を含めても、だが)
このシーンは多くのサイトで書かれているように、シンジのウォークマンが壊れ、25-26という曲のループを破壊し、27へ進めた。
今回の劇場版が26まで進めた物語ならばそれを破壊し、突き進んだ後半の、マリが屋上に現れてからのシーンは27話と考えてもよい展開である。
マリは以後、シンジの導き手であり、物語の違和感でありがならも傍観者に至る。
狂言回しでありながら、彼女は肉と人格を兼ね備えたキャラクターであり、旧TVが各キャラを深く掘り下げたのに対し、言動や行動でその人間の本質をわかりやすいまでに体現したキャラクターである。
分かり易さもありながら、深みも持っている。その深みが今後旧TVほど描かれるかは次回作を待たなければいけないが(描かれなくてもよいと思える)彼女は観客に近い存在でもあったのだろう。
それは変化を望む監督やファンの意思だったのかもしれない。
三人の少女が起こした波
綾波レイ
式波アスカラングレー
真希波マリイラストリアス
三人の少女はシンジの心に波を起こした。エヴァは序の出だしが旧劇場版を思わせる波であったし、波、あるいは海のイメージはエヴァの第一話、あるいは旧OPからは切っても話せない精神イメージなどの形として描かれている。(使途の固有波形パターン、シンクログラフ、水没した世界、水がどこかしらにあり、常に波がある)
破のアスカは(旧TVでもそうだが)その破天荒な言動や行動、同棲しながらのぶつかり合いはシンジの人間的な成長、他人との接触の心地よさや辛さを目の当たりにさせてくれる人間だった。彼女の不器用さや心の弱さも知り、自分以外にも同じく悩む人間がいることを知る。同時に他人に興味があまり持てなかったという設定に変わった孤独を好むアスカに人とのふれあいによるやさしさをシンジによって教えられた。
レイは序の事件もあり、人間らしくなり、ゲンドウの人形から脱却するという展開にまで変化した。ゲンドウだけではなく二人の親子関係の修復をしたいというゲンドウとシンジの不器用さを知った上での橋渡し役として他人のことを考えられるようになり、彼女の変化はゼルエル戦の戦う理由にまで変化し、シンジが戦わなくてもいいように、とまで意気込む。それはアスカの事件もあり、彼女を救えなかった、そしてシンジの心を救うこともできなかった自分への鞭のようにも思える。
そしてマリは加持とは違う形でシンジを促す。マリの言葉はある意味、やさしくシンジに逃げろという。惨劇を見た状況でもシンジは立ち向かう。反発したというわけではないにしてもあの状況で逃げてもいい、とマリがいったことに対して戦いに行くシンジの成長は男の戦いとはまたやや異なるモチベーションだ。
失うこと、絶望感は旧TVを超えている。
それでも立ち向かえるのは成長だろう。
ミサトからのバトンタッチの意義
序であれだけクローズアップされたミサトがシンジを説得しても無駄だった。
それは破において何を意味するか。
序ではレイよりミサトのほうがヒロイン然としていたし、初期のエヴァの構想でもそのようなことがコミックスの庵野監督の意見でも書かれている。
その内容はシンジとミサトの心の不器用さについてふれたものであり、レイやアスカについて(アスカに至っては当時未搭乗だが)書かれていなかった。
ヒロインであったミサトはヒロインではなくなったのか。
今回は三人の少女が最後の決戦のきっかけであり、決意でもある。ミサトが母親役として墓参り、そしてアスカとの共同生活のクッションとしていた。
序でシンジを戦いに向かわせる決意を促せたミサトはシンジに対して利用しているという罪悪感、レイとアスカ(ひょっとしたらトウジも含まれていたのかもしれない)三号機パイロット選抜をしたのはマルドゥック機関が存在しないのでミサトが選んだ。
アスカの事故を間接的に引き起こし、家族ごっこの崩壊はミサトから容赦なく母親役を奪ったかに見えた。
しかし、子供が巣立つように、シンジはミサトからの言葉より少女たちとの会話、接触、経験により、すこしだけ男に成長した。
母親のいうことより自分の言いたいことがいえるようになり、母親的な立場、現場の指揮官としての責任がミサトを弱めたこともあり、ミサトはシンジを引き止めることはできなかった。
この変化はシンジを取り巻く世界が前回より大きくなったことの証だろうし、前回の序と違い、破の話の世界の拡大もシンジにあわせて行われる。
皮肉にも元祖セカイ系作品であるエヴァは外部的視点やマリという狂言回し、閉鎖の中での繰り返しを思わせた序とくらべ、拡大しながらもそれはシンジの世界の拡大であり、セカイ系というものの構造を保っている。閉塞の拡大と思わせて閉塞を壊す拡大が描かれている。それは主人公を通してかつての出来事をしっている観客に対してもだろう。
ミサトは最終決着のシーンではシンジを応援する。
あのシーンは、私にとってじつはレイを救い出す以上に感動できたシーンでもある。
誰かに応援されて、立ち向かうシンジの姿がたまらなくうらやましくもあり、悲しくもあった。
巣立つ子供への応援でもあり、自分の意思で本当に突き進めたシンジを否定しなかった。
肯定は相手に対して認める行為だがそれをミサトが最後に感情を振り絞って叫ぶ姿は彼女の苦悩の表れでもあった。
シンジを後押しする姿はなんと美しいことか。
シンジが成長するならミサトの立場が変わることもまた必須であったが、旧劇場版とくらべ、なんとやさしい変化か。
最後の最後でTVではシンジの前で女になることすら否定された彼女は指揮官として、私怨を晴らすという旧劇場版は死に進んでいったように見えた。
生きるため、という意思が今回はあふれている。「だから、みんな死んじゃえばいいのに」なんていう言葉が見つからない。
それこそが閉塞からの脱却だろう。
壊れていく碇シンジの物語
今回劇場に一番足を踏み入れたくなった一番の理由が序のときに発表されたこの次回予告での言葉だ。
「壊れていく碇シンジ」の物語と受け止めたが、実際のところ、壊れていく「碇シンジの物語」であった。
散々壊れていくシンジを見てきたのに、また見なければいけないのかという憂鬱な感性が見ていて心を砕かれていく映画かもしれないなんて思わせてくれたからだ。
だけど壊れたのはいままでの、シンジを主人公とした物語の崩壊があらたな局面を生み出し、次のQまでの期待となる。後半からQ予告までの流れはまったく見たことのないエヴァンゲリオンに感じた作品だった(本質は旧作をなぞっているにもかかわらず)
壊れて行ったのは旧エヴァにとらわれたファンも含めてだった。
新規に映画から始めた人には理解しがたい感動はTVから観ていたファンには間違いなくあり、それはやはり愛憎混じったものだろう。
私にとって今の時点で「Q」はいらない。
あまりにも破がいままでのエヴァを内包している物語であり、シンジが進めた映画だからこそこの映画だけで完結しても満足できる物語だった。
これで十分なまでに、伝わってくるものがあった。
ただしい答えを作るのは、自分
とはいえ、これは私一人の解釈でしかなく、自分がなぜ破を見て感動できるか、劇場にいった人、後にソフト媒体で見る人は自分の感動の源泉が何処にあったのか、何が不快かを考えてもらえるヒントになれば幸いである。
つづく
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