愉気とはともに同じ夢を見ること
私の話はいつもそうなのですが、思いついたままにつらつらと話していくので、どんな話になっていくかはあまり意図しておらず、私自身も予想をしていない方向に向かっていくことがほぼ常のことです。
今回も愉気(ゆき)についての話をしていたら(2016年のこと)、「愉気とはともに同じ夢を見ることなのです」という言葉が口をついて出てきました。
(※注:愉気とは整体のお手当てのこと)
自分でもそんな言葉が出てくるとは思ってもいなかったので、我ながら「おお…そうだったのか」と新鮮な驚きがありましたが、それだけ聞くと「何のことやら」という感じですので、ちょっとその説明をいたします。
私たちは皆、たとえ同じ物を見つめていたとしても、そこに同じ物を見てはいません。ある人はそこにAというモノを見て、またある人はそこにBというモノを見る。
それは、それぞれがそれぞれの経験や価値観から、ある見方をしているということであって、その違いについて対話をすることには意味がありますが、どちらが正しい見方なのかと問うことには、あまり意味がありません。誰もが現実を見ているようで、じつは夢を見ているというだけのことです。
気功であれ、整体であれ、あるいはありとあらゆる修養系のメソッドは、「ともに同じ夢を見る訓練」をします。
私もむかし気功のトレーニングとして「気のボールを交換する」ということをやりました。
自分の手のひらの中に気のボールを作って相手にパスする。相手はその気のボールを受け取って、また私の方に投げ返す。それをしばらく延々とくり返す…。
…いったい何をやっているのでしょう?
ともに同じ夢を見ているのです。見えない気のボールをやり取りしている夢です。それがハッキリと実感を伴うかのようになるまで、お互いにくり返すことがトレーニングなのです。
それができるようになったとき、二人は深くつながり感応し合っています。同じ夢を見ることによって感応し合うのです。
現代人としては、それが現実に起きていることなのかどうか気になるところだと思いますが、それが本当に現実のことなのかどうかと問うことは、あまり意味がありません。
学術的には大切なことです。ですから研究者がその問いを抱いて、客観的なデータをもとに研究していくことには意味があります。
ですがそこで何をやろうとしているのかという目的からすると、当事者にとってその問いは何の意味もありません。むしろ余計なことですらある。
それは自分のパートナーに対して「この人は本当に私を愛しているのだろうか?」と問い続けるのにも似ています。
その問いの先には「疑念の袋小路」しかなく、自身の目指したい方向からひたすら遠ざかる道でしかありません。
それはいわば研究者が研究対象を観察するような、パートナーを冷めた客観的な目で見つめる関係を構築する身振りです。そうしたいのなら別ですが…。
もし温かな信頼関係を構築したいと望むなら、大事なことは二人の見る夢がかさなり合うということなのです。
「ここに確かにあるよね?」「うん、あるね」と、お互いがこころから合意することが大切なのです。
「客観的にどうなのか」ということなど、まったくお邪魔なことであって、むしろ現実はおぼつかない空虚な幻想であった方が良いくらいです。それならそこにどんな夢でも見ることができますから。
さらに言うなら、現実に寄る辺のないその夢は、二人で支え合わなければ儚く消えてしまう夢で、だからこそ二人は、その覚束ない夢によって強く結ばれることになるのです。
基本的に、現実は夢を破壊する作用ばかりもたらします。絶対にとは言いませんが、たいてい現実は、私たちがささやかに夢見ることをおびやかそうとするのです。
でも、それでもなお私たちは夢を見るのです。
その決意がヒトをヒトたらしめています。
ヒトは夢見ることによって熱を生み出し、つながってゆくのです。
今日の講座には大勢の子どもたちが来てくれて、講座後には座布団を使って遊んでいるうちに、タワー作りが始まりました。それが大きくバランスを崩して倒れるたびに、子どもたちは大きくはしゃいで、そのカタルシスを味わっていました。
高く高く積み重ねた座布団とそれが崩れるダイナミズムに、子どもたちはどんな夢をかさねて見ていたのでしょう。そんなことを空想すると、私も何だか愉しくなってきます。