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化石とミルク

1.教師が伝えるもの

『シュタイナー教育ハンドブック』の中に、こんな文章があります。

『本で学んだことを子どもに語ると、干からびた人間のようになる。その他の点では、まだ生気ある人間であっても、不思議なことに、干からびた人間のように語ることになる。記述されたものから学んだことの名残りを、自分の内に担っているからだ。それに対して、自分で考え出したものは、みずからの内に成長力、新鮮な生命を持っている。それが子どもに作用するのである。だから、童話のなかの植物・動物・太陽・星をいきいきと解釈しようとする衝動が、子どもに向かい合う教師のなかになくてはならない。そうすると、朝、学校に行く教師の歩みのなかに、子どもたちに伝わっていくものが、すでに現れている。』

ルドルフ・シュタイナー『シュタイナー教育ハンドブック』風濤社(2007)

たしかに教育で伝えるべきは知識ではありません。知識は必要ですが、知識を伝えることをもって教育だとはとても言えません。

教育で伝えるものとは、強いて言うなら「熱」とでも言うしかないようなものでしょう。

知識を含めた人間の知というものが、どのように教師の中で息づき、躍動しているか、そしてまた新たに生まれ続けているか。

教育という営みの中で、そんな生命力を賦活する「熱」のようなものが、子どもに伝わり息づいてゆくのだと思います。

自分自身の小学校時代のことを思い出してみても、先生たちから学んだことというのは、それぞれの教科の知識などではなく、先生自身の「どのように知(世界)と向き合っているのか」、あるいは「どのように人と接しているのか」というような、人としての振る舞いや在り方そのものなような気がします。

2.冷えた知識の結晶

たとえば教師が、暗記した公式のようにカチッと固化した知識を、そのまま子どもに引き渡すというのであれば、それは教育者のなすべきことではなく、単なる「知識の取次ぎ人」とでも言うような仕事でしょう。

もしそのようなことが教育の中で行なわれていくのだとするならば、教師自身が冷めた心魂でそれらをあしらう振る舞いを、子どもたちもそっくりそのまま真似して身に付けていくことになるでしょう。

そこに熱はありません。活き活きと躍動し、新たな力を賦活するものがありません。冷めた世界の中で、冷めた知識の結晶をクールに取り扱うテクニックがあるのみです。

そのような中にあれば、子どもの心象には、世界は冷えて、固くなって、とくにつながりのないバラバラの断片が並んでいる空間として描き出されていくことでしょう。

そしてそんな世界の中では、からだの奥深くからマグマのように湧き出てくる熱エネルギーもまた冷えて固まってしまって、やがてはゆっくりとその活動を停止してゆくことになるかも知れません。

そのように熱を忘れてしまった世界は、どんなに脚色し、色鮮やかな装飾を施そうとも、心を震わし手足を突き動かす力の抜け落ちた「化石化した世界」に過ぎません。

そんな世界の石化の力に晒され続ければ、子どもの感性は冷めていき、冷え性が増え、低体温が増え、神経症が増え、自殺が増えていくのも当然なような気がします。

3.オパール化した化石

…とまあ、そんなことを書きながら何ですが、私は化石が好きです。

オパール化した化石など、一日中見ていても飽きないほどに美しいと思っています。

見出しの写真:オパール化した古代生物の骨の化石

かつて数億年前の古代の地球を闊歩した生き物たちがやがて化石化し、ときにオパール化して七色の輝きを放つという事実は、「地球生命体の営み」ということが果たしていかなることであるのか、私たちのファンタジーを刺激して止みません。

少なくとも私はその事実に、私が死んだ後の「数億年の孤独」を祝福されたような気がして、もう細胞どころか分子レベルでとても勇気づけられました。だっていつか七色に輝けるんですよ?(笑)

4.子どもに必要なのは温かいミルク

でも、それでもやはり、それら化石はすでに時の流れの中に沈殿した残滓に過ぎないのです。活き活きとした熱を世界に返してしまった後の冷たい残滓です。

今まさに成長し、世界と向き合わんとしている子どもたちに必要なものは、そのような残滓ではなく、活き活きと躍動する力に満ちた温かいミルクなのです。

それはかつてこの世を謳歌した彼ら化石たちが世界に返した力であり、そして「…雲からも風からも 透明な力が そのこどもに うつれ…」と宮澤賢治が願った、あの「透明な力」なのです。

絶えず化石化しようとする力は誰の中にもあります。

大切なのは、それに偏りすぎて自分の中で冷えて固まってゆく力ばかりが強くなってしまわないようにすることです。

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