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贈与と返礼を巡るおでこの物語

1.悩める若者

私が大学を卒業した頃はいわゆる就職氷河期と呼ばれた頃でしたが、私自身はいっさい就職活動をすることなく、もっと人間の勉強がしたいと思って、整体の師匠の下について人間のからだのことを勉強していました。

大学を卒業しても就職せずに何だかよく分からないことをやっている息子の姿に、母親もやきもきしていたことと思いますが、私の中ではそのまま会社に就職して働くということが、どうしても想像できなかったのです。

卒業から一、二年も経った頃、久しぶりに大学時代の仲間たちと集まろうということになって、みんなで友人のマンションに集まった時のことです。

久しぶりの仲間との再会についつい飲み過ぎてしまった私は、だいぶ酔っ払ってしまって、やがて何がきっかけだったのか感情が昂ぶって、そのとき話をしていた先輩の胸ぐらを掴んで床に押し倒してしまいました。

先輩に馬乗りになって顔を突き合わせて、「ちゃんとやってんですか! 全力でやってんですか!」とか何とか叫んだのです。

すると先輩は床に押し付けられながらも、馬乗りになった私の顔を正面からジッと見据えて、「オレはちゃんとやってるよ」と静かに、でも力強く言葉を返しました。

記憶は覚束ないのですが、そのとき私が激昂したきっかけは、その先輩というよりもむしろ自分自身にありました。

その頃の私は漠然とした将来の不安のようなものに摂り憑かれていて、その不安を先輩に吐き出していたのだと思います。

「お前はちゃんとやってんのかー!」という己への思いを、自らに向けるだけの根性が無かったへなちょこな私は、甘えて泣きながら先輩にぶつけていたのです。

いやぁ、恥ずかしさぶっちぎりで若いですね。迷惑千万。でもそれが若さ。でもやっぱり迷惑。

2.引き受けてくれた先輩

つぎの朝、眼が覚めたあとに、二日酔いでガンガンする頭をフル回転させながら、昨夜の出来事を必死になって思い出した私は、「先輩に謝らなくては…」とずるずると先輩の元へと行き、「昨日はスイマセンでした…」と陳謝しました。

すると、おそらく朝まで飲み明かしていたであろう先輩は平然と「おお、いいよ。大丈夫か?今日は。」とあっさり返したばかりか、私の容態までも気遣ってくれたのです。

そして、おでこのコブをさすりながら「頭がいてぇ…」と笑ったので、私も自分のおでこを触ってみたらやはりコブがあったのを今でも覚えています。

自分の鬱屈した不満を、何の関係もない先輩の胸倉をつかんで床に押し付けながらぶつけてくるような傍若無人な振舞いに対して、その眼をしっかり正面から見つめ返しながら、「オレはちゃんとやってるよ」と真剣に答えてくれた先輩。

その先輩の姿に、私は「大人」とはどういうものであるのか、そのとき思いっきり教えられたのです。天文学的にはわずか数年の差しかない先輩と私の年齢差は、精神的に見ればはるかな隔たりを挟んでいました。

自分が何者でいったい何をやっていけば良いのか分からなかった私に、先輩はその振る舞いを通して、「何をやっていくか」というよりも、「どうあるべきか」という視点から、私に進むべき道を示してくれたのです。

3.次は君の番だ…

先輩は私の傍若無人な身振りをすべて一手に引き受けてくれました。何の謝罪も等価交換も求めることなく、その理不尽で不平等な関係を何事もなかったかのように引き受けてくれたのです。

それは、先輩から私への、かけがえのない贈与でした。

私はそれに対して何も返すことができません。その不平等な関係性による居心地の悪さを少しでも解消するために、私にできることは一つしかありません。

つまり、私はやがて暴れ狂う無礼な若者の前に屹然と立ち、その思いを正面から受け止めなければならないことを、宿命として刻印付けられたのです。

ある意味、先輩から「返すことのできない贈り物」をもらってしまった私は、同時に「尽きせぬ返礼の責務(債務)」を負ってしまったのだと言えるでしょう。

返しても返しきれないその責務は、強く私を突き動かします。

損得だとか、建前だとか、合理性だとか、そういう理由を吹き飛ばしてまでも、「私がやらなければ!」という熱を生み出し、私のこころと私の手足に「動け!」と命じるのです。

やがていつか、私の前に悩める若者がやってくるかもしれない。その若者は、将来に対する不安や葛藤、社会の耐えがたい理不尽に駆られて暴れているかもしれない。

そんな暴れる若者をなだめながら、その光景に私は「いつかどこかで見た光景」を重ねて見ることになるでしょう。

そのとき、私のおでこに刻まれた「宿命の紋章」がまばゆいばかりの光を放ち、おごそかに私に告げるのです。

「君の番だ…」と。

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