
『発達』特集「自然と子ども」より
以前『発達』(159号、ミネルヴァ書房、2019)という季刊誌に寄稿したことがありました。
「自然と子ども」という特集を組むに当たって、整体ボディワーカーとしてからだの観点から子育てについて語っている私にお声掛けいただきまして、僭越ながら寄稿させていただきました。
一般にはなかなか目にすることのない媒介かと思うので、そのときの文章をこちらに掲載したいと思います。
学術誌の掲載ということもあって、気持ちいつもより文章が「硬く」そして「長い」です(8000字強)。
「いつものことでしょ」と言われてしまうと何も言えませんが(笑)、まあともかく読み始めるに当たってはどうぞご注意を…。
1.「あたま」と「からだ」
私は整体というものを生業としておりまして、野口整体、武術、野口体操、プロセス・ワークといったさまざまなボディワークを、実際に体験しつつ学んできました。
それらはどれも人間の「からだ」や「動き」というものを大切にして、そして丁寧に取り扱うという点で共通しており、私もいろんなことをつねに「からだ」という観点から見ています。
私は講座で受講生に語るときに、よく「あたま」と「からだ」という二つのものを並べて、その対比から物事を語ることがあります。
つまり「あたま」というのは、意識的で、明瞭で、論理的で、静的であるのに対し、「からだ」というものは、無意識的で、漠然で、感覚的で、動的です。
その二つであればどちらが取扱いしやすいかと言えば、「あたま」的なもの、つまり明瞭で論理的なものであることは言うまでもありません。
なので現代社会において、何らかのシステムやメソッドを構築しようという時には、「あたま」的な明瞭で論理的なものが好まれ、「からだ」的な漠然とした感覚的なものは省かれるか、あるいはできる限り明瞭で論理的なものに置き換えられる傾向にあります。
それによって、培われた技術や方法は、言語化しやすく、共有しやすく、検討しやすく、改善しやすくなるので、そのメリットは計り知れません。
ただどんなものも必ずメリットとデメリットがあるもので、そのように「あたま」的なものを中心に構築されていったシステムからは、「からだ」的な漠然とした感覚的な技術や方法というものがこぼれ落ちてしまいがちです。
それは「経験」とか「コツ」とか「職人技」とかいう言葉遣いで語られるような部分です。
そういう部分の取扱いや引き継ぎは、ほぼ個人に任されたまま、システムとしてはほとんど取扱いされずになおざりにされてしまっているのが現状だと思います。
ただ集団や組織として、その中で培われた技術や方法、それは「あたま」的なものも「からだ」的なものも含めて、集団内できちんと共有し、引き継いでいくということは、とても大切なことであるはずです。
そのときに、共有しやすい「あたま」的な部分は良いとして、「経験」とか「コツ」とか「職人技」とかいう言葉遣いで語られるような、「からだ」的な技術や方法をどのように取り扱っていくかということは、非常に大きなテーマであるでしょう。
それはとくに保育の現場などにおいては、非常に重要な課題となるのではないでしょうか。何故なら、子どもという存在が、「あたま」的なものよりもはるかにずっと「からだ」的なものに親和性があるからです。
そういう「からだ」的な、無意識的で、漠然で、感覚的で、動的な部分に潜んでいる技術や方法というものを、どのように伝え、また育んでいくのか、そこを考えていくということは、子どもを育てるという意味でも、保育や教育という営み自体をより良いものにしていくという意味でも、大切なことであるでしょう。
2.「からだ/子ども/自然」という複雑系
さて、そのように「あたま」と「からだ」を対比して考えてみるという方法ですが、私がその対比を考えるときに、いつもふと浮かぶ連想があって、それが「おとな」と「子ども」、「都市」と「自然」という対比です。
たとえば「都市」というものは、ぐるりと見渡してみれば感じるかと思いますが、目に入るほとんどあらゆる物が人間の手によって作られた物たちで、輪郭は明瞭で、同じ形状で、配置は論理的で、季節を通して変わることなく、用途がハッキリしています。
それに比べると、「自然」というものは、輪郭は曖昧で、形が異なって、配置は雑然として、季節によってうつろい、特にハッキリとした用途があるわけではありません。
それは「おとな」と「子ども」という対比においても、同じような事が言えるでしょう。
つまり「あたま/おとな/都市」が、どちらかというと意識的で、明瞭で、論理的で、静的であるのに対し、「からだ/子ども/自然」というものは、無意識的で、漠然で、感覚的で、動的な在り方をしています。
「からだ/子ども/自然」のような在り方というのは、基本そこにある一つ一つの輪郭が漠然としてハッキリ明確に分けられず、それぞれがお互いに絡み合うように影響を与え合い、ある種の複雑系のような振る舞いをします。
なので、何かをインプットしたときに、一体どのようなアウトプットが出てくるのか予測がつかず、まるで昨日と今日で、もはや別の存在であるかのようなレスポンスが返ってくることもしばしばです。
そして、一つ一つの現象が一体どのような意図を持って現われているのかということも、なかなか理解できるものではありません。
しかし、それは決して「そこに意味や意図がない」ということではなく、さまざまな因子が絡み合って複雑な在り方をしているので、単純にその因果関係を結びつけることができずに、結論を導き出すことができないというだけのことです。
3.「からだで考える」という方法
そのような「からだ/子ども/自然」と向き合い付き合ってゆくためには、「あたま/おとな/都市」との付き合い方とはまた違った作法が必要で、私が学んできた整体を始めとしたさまざまなボディワークには、その作法を身に付けていくためのヒントが多く存在しています。
私がボディワークを学んでいく際に師匠たちから言われてきたことは、「考えるのではなく感じること」です。
「考えない。感じなさい」とは、私が繰り返し何度も言われたことです。ついついあたまで考えてしまいがちな自分は、本当に何度も師匠に注意されました。
初めは私も言われている意味が分かりませんでした。「考える」こと無しにどうやって目の前の対象と向き合うのか、その方法がまったく思いつきませんし、そんなことをする意味も分からず、不満ですらありました。
たとえ、たまたま技術が上手く成功したとしても、「なぜ上手くいったのか」も「何が上手くいったのか」も分からないままで、その時の私はただ途方に暮れるしかありませんでした。
ただ、いま思えばそれは、私が身に付けてきてしまった「あたま」的な考え方、つまり「還元主義的な線形思考」という現代のオーソドックスな思考スタイルからの脱却を目指した教育的指導であったのです。
考える方法を一つしか知らなかった私には、「考えるな」という指導は、思考の否定としか受け止められませんでしたが、そうではなくて「考える方法」自体をアップデートしなさい、ということだったのです。
「まず全体を部分に分解し、部分部分を正確に把握した上で、それをまた全体に組み合わせれば、全体が理解できる」という思考スタイルは、論理的には間違っていませんが、経験的には、それで理解できることには限界があります。たいてい何だかよく分からない未知数xがそこには混じり込んでいるのです。
そこで、「感じる」という方法をもう少し細かく見てみると、それは「自分が何を感じているのか観察する」ということなのです。
観察対象に対して考察の目を向けるのではなく、観察対象を目の前にしたときに、自身のからだが何を感じているのかに目を向けるということです。
つまり、対象をそのまま思考の対象にするのではなく、対象に対していったん自分のからだを介在させて思考する、という方法です。
いわば、自身のからだをアンテナとして受信するようなもので、自身の五感と経験を駆使して、対象を自身の中で再構築するわけです。
ですから「感じる」という方法は、別の言い方をすれば「からだで考える」という言い方にもできるでしょう。
「あたまで考える」とは、対象を外側から観察する客観的な考察方法で、「からだで考える」とは、対象を内側で観察する内観的な考察方法と言えます。
「からだで考える」という内観的な方法を取ることで何が一番変わるかというと、「全体を全体のまま受け止める」のです。
全体のまま受け止めるというのは、そこにある一見、意味も意図も分からないような膨大なノイズも含めたまま受け止めるということです。丸ごと捉える、いわば「生け捕り」です。
「あたま」という、意識的で、明瞭で、論理的で、静的なフィルターでは、意味も意図も分からない些細で漠然としたノイズのようなものは、おそらく真っ先に排除される部分でしょう。
ですが、「からだ」という、無意識的で、漠然で、感覚的で、動的なフィルターは、そこで選別することなく、そのまま掬い上げます。
それらは確かにほとんどがただのノイズでしかなく、思考の中で重要な役割を果たしてくるようなものは、おそらくほぼありません。
だからこそ「あたま」的には初めから弾いてしまうわけですが、「からだ」的にそれら膨大なノイズも含めたまま、雑多な賑わいの中で思考を進めてゆくと、まれに思考の計算式の中に繰り返し繰り返し現われてくるようなノイズ「未知数x」があったりするのです。
思考を進めていく際に、何か気になったり、何か引っかかったりと、たびたび現われてくるその「未知数x」は、その時にはまだ何なのかは分からないけれども、おそらくそれが非常に重要な要素であることを、無意識的に、感覚的に、捉え始めているということなのです。
ボディワーカーたちは、アンテナの感度を上げるためにからだの緊張を弛めて、できる限り脱力した状態で対象の前に立ち、目の前の事象を早々と客観的に分析してしまうことを自制し、全身でその事象を感じながら、その事象が自身の内部で結像されてくるのを待ちます。
そのようにして、ボディワーカーたちは「からだで考える」という方法を駆使して、「からだ/子ども/自然」のような漠然とした感覚的なものを、何らかの分かりやすい記号や概念に還元してしまうことなく、そのままを取り扱おうとするのです。
そして、じつはその方法は、未熟なカタチではありますが、子どもたちが行なっている思考の方法でもあって、そのように「からだで考える」子どもたちにとって、『「からだ」を使って「自然」の中で遊ぶ』というような、親和性の高い環境の中で育つということは、成長という意味からも学習という意味からも、非常に有意義なことではないかと思うのです。
4.「都市の情報処理」と「自然の情報発見」
「自然」に対比する意味での「都市」というものを、「人間の作った物に囲まれている環境」と定義すると、「都市」はすべての物に所有者があり、そしてそこには何らかの意味や意図や目的というものが込められています。
ですから子どもにとって、そこで育ち学んでゆくということは、そこに込められている意味や意図や目的を理解していくということでもあります。
たとえば「赤信号は止まれ」「歩くのは歩道」「植え込みは進入禁止」「玄関で靴を脱ぐ」「排泄はトイレで」などなど…。
そういう周囲の環境に対して、「これはこういう意味、これはこういう意味」と理解し覚えてゆくこと。それが「都市」での生活に順応してゆくための手順です。
ところが「都市」という人間の作った物に囲まれている環境を抜け出し、「自然」という人間の手の入っていない野原や山林に入っていくと、そこには何かのために用意された物というものがなく、意味や意図や目的というものがありません。
ですからその中では、どこで止まって、どこに入ってはいけないか、靴を脱ぐのか脱がないのか、どこで排泄するのか、その指示を示すあきらかなルールやサインというものはなく、自身の経験と想像から周囲に発見していかなくてはならないのです。
たとえば「ここから先は危なそうだから行かない」とか「ここは裸足が気持ちよさそう」とか「ここなら用を足しても良いかな」などなど…。
ほかにも、何か水を入れたいなと思ったときにも、「都市」であればコップやグラスなど、その目的に合わせた道具を探しますが、「自然」の中にはあらかじめそのために準備された物というのは存在しないので、森や草原などをウロウロしながら、何か使えそうな物を探すしかありません。
何かの実の殻を見つけてコレを割ったら使えるんじゃないかとか、倒木のへこみを見てコレをもっと削れば水を入れられるんじゃないかとか、自身のそのときの目的に合わせて、周囲のあらゆるところに可能性を発見してゆかなければなりません。
「周囲にあるさまざまな用途を持った物の中から、自身のそのときの目的を用途とした物を探し出す」のではなく、「周囲にあらかじめ用途を持った物はとくに無いが、その中から目的を達成するために活用できそうな可能性を探し出す」というのは、知性として、より創造性と自発性に富んだ働き方でしょう。
「都市」においては、それぞれの道具の用途や目的という「分化された情報」を記憶して、必要に応じていち早く取り扱う「情報処理」の能力を求められますが、「自然」の中では、何かのために用意されたわけではない物たちの中から、自身の目的を達成するための可能性という「未分化な情報」を発見する、いわば「情報発見」の能力を求められることになります。
現代社会でたびたび問われる「若者たちの問題」として、いわく「言われたことしかやらない」「説明しないと分からない」「自分の頭で考えない」…などなど、いろんなことが言われますが、その背景には、すでに分化された情報の「情報処理能力」ばかりに長けて、未分化な状態から必要な情報を取り出す「情報発見能力」の未発達というものがあるようにも感じるのです。
「子どもが自然の中で育つ」ということは、意図とか目的とか狙いとか、そういった分かりやすい記号や情報が貼り付けられた世界と向き合うということではなく、雑然とした環境の中で、自身の要求を果たすために自分には何ができるのか、自ら取り組んでいくということです。
私たちは、教育が上手く成功しているかどうかを判別するために、分かりやすい教育成果、たとえばテストによる順位付けという方法を採用しましたが、それによって、そのアウトプットに対して連動性の高いインプットを求めることが、現実的な教育目標となってしまった面は否めません。
ですが、人間にスムーズなインプット(学習)とアウトプット(成果)を求めることが教育の目標であるはずがありません。
現代は非常に合理的で親切で、すべてにきっちりと意図や目的を込めますが、意図とか目的とか狙いとかいったことを重視しすぎるあまりに、子ども自身がそのまんま環境と向き合うことの意味や、そもそも何のために人は学ぶのかという哲学を、なおざりにしてしまっているのかもしれません。
5.「からだ」との対話を
私は自らを「整体ボディワーカー」と名乗って、各地でワークショップを開催し、親子を中心としたいろんな方たちに、ボディワークを体験してもらっていますが、そこには、ボディワークを通じていろんな人にからだで感じ、からだを感じ、からだと向き合ってもらうことで、世界との新しい付き合い方を模索して欲しいという思いがあります。
「からだを使う」というと、スポーツや体操やトレーニングといった、比較的からだを大きく動かすことばかりが連想されがちですが、もっと小さく静かでささやかな「からだの使い方、付き合い方」というものもあって、それは「思い通りにからだを動かそう」という、ある種の命令的な関係の取り方ではなく、「今からだは何を感じて、どう動きたがっているか」を大切にする、対話的な関係の取り方です。
そのような「からだとの付き合い方」というのは、まだあまり価値を置かれていませんし、方法も確立されていませんし、指導や取扱いの仕方も難しいですし、もっと言えばそれをどのようにカリキュラムに組んでいくかとか、どうやって成績を付ければ良いのかとか、さまざまな課題が山積みで、ほぼ省みられることなくなおざりにされたままです。
ですが、私としては「子ども」が「自然」の中で「自然」と対話しながら「自然」との付き合い方を学んでいくのと同じように、私たちにとってもっとも身近な「自然」である「からだ」とももっと対話をして、そこにあるさまざまな情報やメッセージを発見しながら、「からだ」との付き合い方を身に付けていって欲しいのです。
なぜなら「からだ」は、私たちにとってもっとも身近なものであり、そして一生共に活動していくものだからです。
そことどのような関係を取り結んでいくかということは、配偶者や、家族や、生活環境や、労働環境などと、どのような関係を取り結んでいくかということと同じくらい大切なことであると思うのです。
整体では、病気などのさまざまな心身の変動に対して、「手当て」ということを行ないます。整体では「愉気(ゆき)」と呼びますが、端的には相手のからだにそっと手を当てるだけという、文字通りの「手当て」です。
子どもが「お腹が痛い」と言っているときに、親がお腹にそっと手を当てて撫でてあげる。それは、どんな親子関係においても当たり前のように見られる光景だと思いますが、そのような、私たちが無意識のうちに自然に行なっている手当てを、もっと積極的に活用しようというのが整体の考えです。
そのときにも私は指導として、子どものからだに手を当てるときに「相手にどこが気持ち良いか尋ねながら手を当てて下さい」と親には伝えます。
たとえば「お腹が痛い」と言っている子どものお腹に手を当て、しばらく撫でたりしながら子どもの気持ちを落ち着かせ、落ち着いてきたらお腹の右側と左側、それぞれ手を当てながら「右側と左側、触ってもらったときにどっちの方が気持ちいい?」と本人に尋ねてもらうのです。
そして選んでもらった方に、「こっちが気持ちいいなら、こっちにもう少し手当てしましょう」と、さらにしばらく手当てをしてもらいます。
大切なのは、子ども自身がお腹に触れてもらったときの感じを感じ分けるということ、そして手当てする側を自身の感覚で選んでもらうということです。
そうすることによって、「自身のからだの感覚をしっかり感じ分けること」、「その感覚に従って判断をすること」、そして「その感覚による判断が、他者に尊重されること」、そういうことを子どもに体験してもらうのです。
これはいわば「手当て」による教育で、子どもが自身の感覚に自覚的になり、そしてそれは他者との関係の中で尊重されるということを学ぶのです。その姿勢は、自身の感覚に対しても、他者の感覚に対しても、対話的な在り方です。
これからますますボーダレスな時代を迎え、さまざまな人種や言語や文化や常識が入り交じっていく現代社会の中で、自分とは言葉も世界観も身体文化も違う人と、どうやって対話的な関係を取り結ぶかというときに、そこで培われた対話の感覚は大いに役立ってくることになるかと思います。
そして、「自然」のように用途や目的のある物が無い曖昧な環境の中から、自身に必要な情報を探し出し、「からだ」のように言語化しきれない曖昧で雑然とした感覚の中から、自身に必要な情報を受け止めることは、これからどのような環境に生きていくことになったとしても、必要になってくるでしょう。
1945年、日本において初めて女性参政権が認められ、政治に関しての男女のあいだの対話が公の場で初めて開かれました。
そして1990年代、日本の裁判所において「自然物にも権利がある」とする「自然の権利」を援用しての訴訟が起き始め、自然と人間との対話が徐々に始まりました。
1994年には、国連で採択された「児童の権利に関する条約」が日本においても発効され、子どもの権利を尊重した、子どもとおとなの対話が進んでいくことになりました。
そして私は最近、「からだの権利」ということを考え始めています。
からだにも言い分があって、その要求は感覚的で曖昧で取扱いが難しいけれど、その要求を何だかよく分からない主観的なことと一蹴するのではなく、きちんと対話のテーブルに乗せて、「あたま」と「からだ」と、そして同じようにあたまとからだとを備えた他者とも、等しく権利を持って対話ができる、そんな対話的な社会がこれからできてくることを願っています。