冷えるということ
街の植え込みをふと見たら、彼岸花たちが一斉ににょきにょきと地面から顔を出し始めていました。
私は彼岸花を見ると、まるで妖精のような不思議な生態と、その名前と佇まいに微量に漂わせる彼岸の雰囲気に、遠い思い出のような何とも言えない不思議な気分になるのですが、みなさんはどうでしょうかね?
東京は日中まだ暑さの残る日もありますが、彼岸花や百日紅といった花たちが咲き始めるのを見ると、そんな中でも自然は着々と次の季節の準備をしているなぁと改めて気づかされます。
そうやって徐々に秋の気配が色濃くなってくると、それに伴って子どもたちも鼻水を垂らしたり、咳をし始めたりして、ますます「秋だなぁ」と感じるようになってきます。
だいたいこの時期の変動というのは、たいていのものが冷えから来ています。
寝るときには暑いなと思って寝ていたものが明け方肌寒さに目を覚ましたり、夕方予想以上に早く陽が落ちて冷えてしまったりと、季節の変化に追いつけずに油断しているところを冷やしてしまう事も多いものです。
冷えというのは、からだにさまざまな影響を及ぼすので、どんな健康法や代替療法でも気を付けるように言われます。
肌を冷やさない衣服を着たり、からだを冷やす食べ物を避けたり、温法を行なってからだを温めたり…などなど。
冷え対策として、そういうことが大事なのはまず当然としてあるのですが、冷えという現象は、単なる温度の冷たさという外的要因のみによって起こるのではなく、本人の感受性の問題というものも関わってきます。
たとえば、よく子どもは寒くても靴下を脱いで走り回ったりしていますが、そんなときも自ら脱いだのは冷えづらいのですが、「靴下を脱ぎなさい」と言って嫌がるのを無理矢理脱がせると、冷えやすいのです。
野口晴哉も書いていますが、寒い中、自ら冷水を頭からかぶるのは健康法になるのに、急に雨に振られたり誰かに冷水を浴びせられると冷えて風邪の原因となるのです。それが不本意であればあるほどなおさらです。
外的には同じ現象であっても、その刺激は受け止める側の感受性によってまったく異なったものになるのです。
刺激が内面でどのように受け止められるのかというのは、客観的に取扱いしづらい分野なので、「気のせい」とか「個人差」とかそんな言葉で片付けられがちで、いまだに思考の蚊帳の外に放置され続けているのかも知れません。
でも外に捨てられてしまったモノを「これ落ちてたよ」と拾ってくるのが私の仕事なのです。
ともかく、子どもの冷えの問題を考えるときには、気温や天気、あるいは服装のことだけを考えるのではなく、子どもの感受性や内面の事も同時に考えなければなりません。
楽しく遊んでいるうちは、薄着であっても、多少寒くなってきても、そんなに冷えることはないのです。
もちろん程度はありますが、しばらくは放っておいても大丈夫です。むしろ冷えに対する強さを育てる事にもなるので、本人が望んでやっているなら好きにさせてあげれば良いでしょう。
けれども、そうやって遊んでいるときに、何かにつまずいて転んでしまったり、友達と揉めてぶたれたり、いつまでも待たされて飽きてしまったり…。
そんなことがあると、その瞬間にパッと冷えがからだに入るのです。そういう日中の冷えが、熱だのお腹の痛みだの、夜中のさまざまな変動につながります。
ですからこの時期は、「あ、これは冷えるな」という瞬間を見過ごさぬよう、観察の練習のつもりで子どもの様子に気を掛けておくと良いでしょう。
そして、もしそんな瞬間を見つけたのなら、すぐにその子を覆って温めてあげてください。
ギュッとハグしたり、一枚上着を着せてあげたり、お部屋に連れて入ったり、温かいお茶を飲ませたり…。
そんな小さな気働きが、人を冷えから守るのです。