こころの打撲と儀式
1.こころの打撲
身近な愛する人が亡くなったとか、ずっと肌身離さず大切にしてきた物を失ってしまったとか、そんな衝撃的な悲しい出来事があったときに、人はガタッと調子を崩すことがあります。
気づくとただボーッとしていたり、何かとミスばかりしてしまったり、仕事が手につかなくなってしまったり、ときには人間関係に支障をきたしたり、病気になってしまうこともあるでしょう。
何というか、その人の持っているある種のリズムが大きく乱れて、いろんなことがスムーズに行かなくなって、ガタガタッとしてしまうのです。
整体では、さまざまな変動の中でも「打撲」というものを、もっとも気を付けるべきものとして捉えますが、それは打撲の急激な速度がその人の持つリズムを大きく乱すからです。
身体的な衝撃であれ精神的な衝撃であれ、その速度が急激なものであるならば、それはいわば「打撲的」な側面があって、物理的に何かにぶつかれば「からだの打撲」となり、心理的な衝撃を受ければそれは「こころの打撲」となるのです。
とくに最初に挙げた例は「何かを失う」というカタチの衝撃なので、それはいわば「喪失の打撲」と言うことができます。
「喪失の打撲」というものは、「実(じつ)」ではない「虚(きょ)」の打撲ですから、その対処や手当てが非常に難しくなってきます。
ポッカリ空いてしまった部分と、それによって崩れたリズムをそのままにしておくと、見た目は一見変わりの無いように見えても、そのリズムは本来のリズムからはズレてしまっていますから、しばらくして大きな病いを起こしたり、急に動けなくなってしまうようなことが起こり得ます。
何故なら私たちのこの「形姿(心身)」は、それぞれの持つ固有のリズムによって保たれているからで、そのリズムがズレてしまうということは、この形姿を保つ力が失われてしまうということなのです。
2.一つのリズムとなる
日本には「情が湧く」とか「情が移る」という言葉がありますが、長年連れ添った人やモノには情が移り、言ってみれば精神的な一体化というようなことが起こります。互いのリズムが感応し共鳴し合って、まるで一つのリズムとなるのです。
そのように、まるで一つのリズムを奏でているかのようにまで一体化してしまったモノが急激に失われるということが、どれだけ強烈な打撲であるか計り知れないものがあります。
肉体的に言えば、それはまるで腕を失ったり、脚を失ったり、臓器の一部を失ったりするのと同じような喪失であり、打撲なのです。
そう考えると、愛する人を亡くした者や、慣れ親しんだ愛用品や家屋を失った者など、ひょっとしたらもはや立っていられることすら奇跡的なことであるのかも知れないのです。
それらの喪失は「身体的な目」には見えませんから見過ごされがちですが、でもその当人の世界においては一大事なことが起きているわけで、それはいわば「精神的な目」で見つめることが必要です。
そのような「見る目」は、子どもの頃から「見えないモノを見る練習」をすることによって育まれることで、それはつまりは「ファンタジー(空想力)を大事にする」ということですが、現代ではないがしろにされがちで、もはや省みられることも少なくなっています。
3.儀礼というこころの装具
昔の人は、そのような物質的には見えづらい災いに対して、その対処法として、さまざまな「儀礼」を生み出してきました。
愛する人を亡くしたときなど、その人の持っていたリズムはいろんなレベルで激変してしまうわけで、呼吸が乱れ、脈が乱れ、食が乱れ、睡眠が乱れ、暮らしが乱れ、こころが乱れ、からだが乱れ、ありとあらゆるリズムが乱れてしまいます。
伴侶のことを英語で「Better harf(ベターハーフ)」と言いますが、まさしく半身を欠損してしまったような状態であると言えるかも知れません。
その程度は二人のリズムの共鳴度合いによるので人さまざまですが、それでもポッカリ穴が空いてしまった状態であることに変わりはありません。
そんなとき、たとえば足を失った者が義足(装具)を付けてもう一度歩く練習をし始めるように、愛する人を亡くした際には、人間は集団で「葬礼」という儀式を行なうことによって、遺された者の失われてしまったリズムの代替として挿入し、ポッカリ空いてしまった穴を補完するのです。
儀礼には、古人の経験から導き出された最適なリズムが、伝統やルーティンとして埋め込まれていますから、それがいわば「こころの装具」となって当面の間を乗り切れるよう補完してくれるのです。
こういうときにはこうしなさい、七日後にはこうしなさい、四十九日にこうしなさいと、遺された者はそのさまざまに定められたルーティンをワークしてゆくことによって、心身のリズムを保ち、とりあえずの生活を支えてもらうのです。
そうして「こころの装具」によって補完されたリズムの中で、とりあえずの生活を維持しながら、人はゆっくりと心身を保つ力を快復させてゆくのです。
4.もう一度リズムが動き出す
あまりに強い打撲というのは、それ自体を受け止めきれずに、感覚や記憶が麻痺してしまいます。言ってみれば時間が止まります。
「あのときから時計の針が止まったまま」とは、よく文学的表現で使われる言い回しですが、まさしく本当にそのまんまなのです。その瞬間から時間の流れが消えてしまうのです。リズムが刻まれなくなるのです。
同じところでぐるぐるして先へ進まなくなります。世界から自分だけ置いて行かれます。あらゆる生命プロセスが停滞し、留まり、こわばります。
場合によっては、そのまま「常世(時間の無い世界)」へと旅立ってしまうことだってあるかも知れません。
そんな事態を避けるためにも、葬礼ではルーティンによって「こころの装具」をあてがうのと同時に、喪失した「死者の姿」を活き活きと語り直すということが行なわれます。
ともに飲み食いなどしながら、遺された者たちみんなで、まるでその人が目の前にいるかのようにひたすらに語り挙げることで、遺された者たちのポッカリ空いてしまった穴を埋めてゆく、そんな営みが行なわれます。
それは、いなくなってしまった者の「死語の生」についてのお話であったり、あるいは「生前の思い出」についてのお話であったりするでしょう。
それは「弔い」であり、「言祝ぎ」であり、「治癒」なのです。
「物語の語り直し」であり、「物語のつなぎ直し」であるのです。
遺された者たちは、そのような営みに支えられながら、自分の中にポッカリ空いてしまった穴ときちんと向き合う準備をし、そうしてそこに気を向けてしっかりと「気締め(けじめ)」をつけてゆくのです。
そうやって「気締め」をつけることができて初めて、人は自分の中にポッカリ空いてしまった穴に対して、もう一度そこに血管を伸ばし、神経を伸ばし、活き活きと息を吸い込み、感覚しなおす必要があることを自覚します。
それを「自ら行なわなくてはならない」ということも…。
そうして、その「ポッカリ空いた穴のカタチ」は、まさしく「自分を支えてくれていた人(モノ)のカタチ」であることに感じ入りながら、「愛する人(モノ)が、私の一部を補ってくれていた」という事実を噛みしめながら、自分の意志で、そこを埋め直してゆくのです。
ゆっくりと、同じくらいの時間をかけて、喪失したこともまた包み込みながら、そこから生まれる新しいリズムを紡ぎ出してゆくのです。そうして、もう一度リズムが動き出すのです。
それが私たちの「弔い」という儀式であり、「治癒」というプロセスであり、そして「生きる」ということなのです。
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