ムングンタイガ地方、ムゲンブレンの野辺送り
昔の自分の日記読み返してたら、トゥバのお葬式の様子が今とだいぶ違ってて面白く感じたのでnoteに移植しました。時代のせいかもしれないし、地域のせいかもしれないです。この野辺送りをした村は、トゥバ共和国西南部の端にあり、モンゴルやアルタイ共和国との境に近いところです。
2011年9月17日
トゥバ人民ホーメイ歌手のセヴェック・アルドゥン=オールが亡くなった。9月11日。長い間患っていた。クズルの病院で投薬治療してはムングン=タイガ地方の自宅で静養するという生活をしていた。8月末にはお医者さんたちはなかなか家に帰る許可を出さなかった。友人たちの嘆願により、特別に車を仕立て、先導も付けて、ムングンタイガ地方に帰ることとなった。痩せてはいたが、気は確りしていて「心配ないよ、11月にはまた帰ってくるから」と、見送りに来た人々に話していた。車には3枚のマットレスを敷いて、道中は麻薬を投与していたようだ。2週間後の早朝、49歳の誕生日を前にして入院先のムグル=アクス(ムングン=タイガ地方の中心地)の病院で儚くなった。
訃報を聞いた後DNT*に行くと、テレビ局がホーメイジたちのコメントを撮りに来ていた。
ムングン=タイガ地方出身ホーメイジのカン=フレル、同じく同郷のサヤン・アンサンブルのマリアーナ、ホーメイセンター所長のゾーヤ・クルグスといっしょにお葬式に行くことになった。
葬式は13日。前日の朝10時に集合。アルドゥン=オールの息子さんも行く筈だったが行方不明。クズルを出たのは午後1時だった。スクパク、ウスチエレゲスト、アク=ドゥルク、チャダーナ、テス=ヘム地方を経てサグル、ムングン=タイガ地方に入った。峠では雪がふり、道は凍り、風が吹いていた。終わらないデッコボコの石だらけの草原。病人だったアルドゥン=オールはどうやってこの往復を耐え切ったのだろう。同乗者たちはウォッカを酌み交わす。2度のパンクを乗り越え、目的地のムゲン=ブレン(クズルハヤ村)に着いたのは、夜中の2時頃だった。庭には10人程の人が居る。トゥバのお葬式の習慣**で、煙草を一本ずつ出会った人と交換する。交換する際に個人の思い出を話し、挨拶を交わす。煙草を忘れたので、アルドゥン=オールの親戚の人にトロイカを一箱もらった。車の外へ。寒い。おばあちゃんと煙草交換。前にも来たよね、と言われる。この地方に来るの初めて。誰と間違われているんだろう。家の中に入ると、灯りはついているけれど薄暗い中に、3-40人の人。煙草を交換しつつ前に進む。片隅に赤い棺桶があって、青い布キレで覆われたアルドゥン=オールが寝かされていた。最後に会ったときより一回り小さい。顔も覆われている。棺桶のすぐ脇では、トランプをするおじさんたち***。寝ないで夜を過ごす習わしで、眠らないように気を紛らわせているのだった。部屋にはテーブルが設えてあり、ペリメニやぶどう、サラダ、パンなど所狭しと載っている。とりあえずご馳走になりながら、入って来た人たちと煙草交換。壁にはこれまでもらった賞状の数々と、日本人と一緒に撮った写真が額に入れて飾ってあった。壁の上には弓のホムス(口琴)。馬頭琴のような楽器。一人だけ知り合いのホーメイジを見つける。部屋にいる人は大概酔っぱらっている。仕切っている何人かの女性だけが正気の様だ。疲れたので女性陣は泊まる家に。カン=フレルは寝ずの弔いに。家の中は暖かい。泊まる家の主が、学校の寮で同室だった女の子だった。酔っている。野しっこ。朝起きて外を見ると、どーんとビチェ=ムングンタイガ山が目の前に聳えている。ほんとに綺麗。アルドゥン=オールはいつも、故郷に帰ると元気になっていた。9時にセヴェック家に行き、10分程通夜に参加。遺体の側にすわっていたおじさんに「俺の顔を忘れたのか」と言われた。誰と間違われているんだろう。ゾーヤが、言付かった香典を奥さんに渡していた。10時、遺体を公会堂に運び出す作業が始まった。どの家に入っても、来た弔問客のための料理とミルク茶が用意されている。ヤクの肉とお米のスープ、ヤクの肉のペリメニ、ヤクの肉の茹でたの。公会堂にいくとオンマニパドメフムがかかっていた。壇上にアルドゥン=オールの棺。頭向かって右。顔が剥き出しにされた。イギルを手に草むらにすわる姿****のパネル。賞状類と写真、ホーメイセンターのキャップ(帽子)。プラスチック製の常盤木みたいな花輪12個。そこここで故人の思い出を語りあいつつ待つ。アルドゥン=オールの親戚が色々話しかけてきてくれる。兄弟姉妹の数が多く、結婚も2度しているので子供や孫の数も多かった。誰がどういうつながりなのかあまり把握できなかった。男兄弟たちは全員アルドゥン=オールと同じ形の髭をたくわえていた。彼らは悲しみが深くて、もれなく酔っていた。親戚の男の人は一様に、ホーメイはアルドゥン=オールが教えてくれたと語っていた。
12時にクズルから招かれた4人のお坊さんたちがやってきた。「アルドゥン=オールさんが行った先で幸せに快適に過ごせるようにお祈りしましょう。オンマニパドメフムのところは唱和して下さい。では」とカンブラマ*****が言い、30分程読経。150席程の公会堂は満杯。立っている人、入りきらない人も居た。
この地方はテレビの電波が届かない。中央の局用にゾーヤがビデオを撮っていた。
読経が終わると、葬列の開始。イギル演奏写真のパネルを先頭に、花輪をもった人たちが歩き、そのあとから、棺の乗ったトラック、人々の乗ったバンが10台程続く。花輪を持って歩いたが、墓地まで少しの距離なのに肺が痛くなった。流石4000メートル級の山がそびえているところ。日が照って急に暑くなった。墓地は10分程歩いたところにある広大な原っぱ。風に穂をつけた草がゆらぐ素敵なところ。幾重もの山に取り囲まれている。お墓は10個程まばらにある。10年前に亡くなった長男と、お父さんのお墓のすぐそばに、ふかさ80センチくらいの長方形の穴が掘ってあった。浅い。
人が集まったところで墓を囲むように輪になり、花輪やパネルは他の墓に立てかけてまとめられた。お爺さんが、生まれたときからの軌跡を話しだす。1分間の黙祷のち、弟サメットのスピーチ。カルグラー。妹さんのスピーチ。ゾーヤのスピーチ(浮浪者に間違われた話と搬送時の話)。有志によるカルグラー。スピーチ。悪酔いした親戚のお爺さん×2が、悪態をついて絡んだりなどして退場となる。姻戚でホーメイジでもあるヘルテク・アングル=オールが、何をするのも一緒だったのに、なんで先に、、、といっていた。弟さんの「お兄ちゃーーーん!」という叫び。輪に戻ってみると、今度は穀物とビャクシンの枝を混ぜたものをひとつかみ取って、墓の周りを時計回りに歩きながら中に投げ入れるというのが始まっていた。先頭のひとは、最後のお別れをして列を離れていく。お別れは、額に触り、体(胸)に触れる。順番が来たので触ると静電気でピリっとした。やせ細っていて、肉などなかった。頭の毛も、髭も全て抜け落ち、唇は融けたように噛みしめられていた。お棺の中にも穀物を入れる。お別れの済んだ人から、原っぱに輪になって座ってミルクティーを飲み、ウォッカを飲む。交換とは別の用途の煙草を渡される。この煙草は吸いきる。揚げた小麦粉菓子やチョコ、飴の類いもひとつかみずつとる。そうこうしているうちに、お棺の下に2本のロープが渡され、埋葬が始まった。穴にきっちり収まるお棺。シャベルで土を掬いいれているとき、アングル=オールが、自分の手で土塊をつかんで放り込んでいた。こうするのがしきたりなんだと。埋めた後に、白木の柵で周りをかこい、青いペンキで色を塗った。プラスチック花輪で飾り立てた後、赤いペンキを塗った柱を建てて完成。柱には、在りし日のぷくぷくの巻き毛の少年の写真と生年月日と命日、名前が記されていた。先程もらったお菓子はここに捧げるようだ。揚げ菓子を投げ込んでみる。これで埋葬は終了、各々車に乗って、公民館に帰る。公民館の入り口でも吸うための煙草が配られていた。人垣をみると、アルジャン(神聖な湧き水)にビャクシンをまぜた白い液体を柄杓で手にかけて清めてもらっていた。手を清めた後は、ごはんのふるまい。公民館のホールがひとで満杯。酔っ払いも尋常ではない数。食べていると、奥さんが挨拶に来て、香典をくれたひとたちへのお返し(肉、お酒、お菓子など)を詰めてくれた。酔っ払いがどんどん増殖しだして、お葬式は終わりの雰囲気。ぐでぐでした空気になったところで、早く帰りたいゾーヤがキレた。それから30分程して出発。午後4時をまわっていた。国境近くのため、柵が延々と続く道を走る。タルバガン猟に来たモンゴル人が柵の向こう側に居た。国境地帯なので、許可証がなければ入ることの出来ない土地。急斜面を下り、原っぱを横切っているとき、ムングン=タイガ山が見えた。空気は澄み、青空。ヤクの群れが悠々と草を食んでいた。帰る途中も折りに触れウォッカ。車は20時間後にクズルに着いた。
mixi日記より移植。一部加筆修正。敬称略。
セヴェック・アルドゥン=オール・ダッカシュ=オグル(1962(3?)-2011)
トゥバ共和国西部ムングン=タイガ地方クズル=ハヤ村(通称ムゲン=ブレン)出身の人民ホーメイ歌手で、カルグラーという歌い方の名手として有名だった。ホーメイ大会で狩人の格好で参加して優勝、ロックバンドのYat-khaに参加。弓口琴を現代に新たな形で蘇らせた人。詩作をまとめた本が死後に出ている。日本の巻上公一のレーベルから、「タイガに響くカルグラー」というCDが出ている。
CD/ ホーメイ/ タイガに響くカルグラー / セヴェック・アルドゥンオール他
アルドゥン=オールのカルグラー
https://www.youtube.com/watch?v=xKM4faqC8kA
ホーメイ トゥバの伝統的歌唱法。喉歌とも。
ホーメイジ ホーメイをする歌手
脚注:
*DNT---дом народного творчества 人民芸術館。当時ホーメイセンターとナショナルオーケストラがここで活動していた。
**お葬式で出会った人と煙草を一本ずつ交換し、故人について話す習慣があった。(近年、死者のそばに置く瓶に煙草をいれて供える習慣は残っているが、煙草交換なしでふつうに思い出話をするようになった)
***通夜は死者のために賑やかにするものと後に知った。都会のお葬式ではまた雰囲気が違った。トゥバのお葬式は特に服装の縛りがない(本文中に書き損ねた)
****セヴェック・アルドゥン=オールさんを写した有名な写真。こちらはお悔やみ欄https://www.tuva.asia/news/tuva/3891-aldyn-ool-sevek.html
*****トゥバで一番偉いラマ僧、コロナ禍で亡くなった。文中に出てきたアルドゥン=オールの兄や、末の弟サメットも今は亡い。お葬式をした公会堂は後日火事で焼け落ちたと聞いている。