バランスについて改めて考える
関東稽古を終えて、少し「頭」が働かない日々が続いていました。noteの更新が出来なかったのはそのためです。
今、「頭」としましたが、「身体」は疲れも気にならず、いつも以上に動きを続ける事が出来ています。
これは、「脚は後ろに踏み出せば、足は前へと進む」という新しい歩き方のおかげです。
疲れて前へと踏み出せない・・・、そんな時にも、脚は後ろへと進みます。尻は後ろへと進むように出来ているからです。
お尻が後ろへと落ちれば、後はその勢いをもらい、前へと進むだけです。
これに気がつき、疲れていても動く、という事が出来るようになってきました。
ただ、身体は動くものの、溜まった疲れは胴体を重くし、その重さが頭まで止めてきます。結果的に、考える、という時間はなかなか取れず、こうして言葉を吐き出すまでの時間がかかりました。
ただ、その頭の働きも、「脚は後ろに踏み出せば、足は前へと進む」工夫の応用で解決できそうな予感が現れ、今、それを使って、久しぶりのキーボードを叩いています。
今のところ目論見通りです!
関東稽古を数日続けて行い、その中で「「脚は後ろに踏み出せば、足は前へと進む」歩き方を紹介し、解説し、伝えてきました。
そして、どうやらこれはシンプルに「バランスを取る」という事だったのだ、とわかってきました。
「脚は後ろに踏み出せば、足は前へと進む」とは、実にややこしい話です。
私が流派を作って技を伝える気持ちがあれば、そこに創る技に多少の難しさを与えるために、「脚は後ろに踏み出せば、足は前へと進む」と説明をして困難な技を学びたい欲求と、難しい事をやっている団体という評価を得たかもしれませんが、実用第一の私です。シンプルに考えられてそれで叶うのなら複雑な解説はいりません。
バランスを整えよう、という指導はあちこちでされています。
そして、バランスを取ろう、として生きている人も少なくありません。ただ、頭が思うバランスと、身体で自覚するバランスはちょっと違うようです。
今、「脚は後ろに踏み出せば、足は前へと進む」という術理は「バランスを取る」というシンプルな術理へと変わりましたが、そのバランスには「方向」があります。
「脚は後ろに踏み出せば、足は前へと進む」歩行をする時には「前後のバランス」を整え続ける事で実現をします。
脚を後ろへと踏み出すとは、お尻を後ろへと落とす、という事です。それにより、後ろ下方向へ勢いが生まれます。
お尻から上をただ力ませて立たせたならば、そのまま後ろへと仰向けにひっくり返る事になります。まぁ、実際には転倒を怖れる無意識によって、自然と身体のどこかに力が入り、止まりますが。
後ろへと勢いがある時に、前方向へと進む力をいかに生み出せるか、これがバランスを取るカギになります。
当初は膝下が前へと踏む、と考えていましたが、膝下よりも使いやすいものがありました。それが「頭部」です。
頭は重いものです。その思い頭を細い首が支えています。ちょっと意識して力を抜くだけで頭は前へと落ちていきます。
お尻は後ろへと行きやすく、頭は前へと行きやすいのです。
それぞれがそれぞれの得意な方向を持っています。
それを「同時に」行う事。これがポイントです。
慣れないうちは後ろに踏み出し、前へと行く、と順番になります。これではバランスは生まれず、それぞれを支える体幹部が主役になり働きを生みません。
お尻を後ろへと進ませた瞬間、その動きのある間に頭を前へと進ませれば、前後のやじろべえのようなバランス感覚がそこに生まれている事が自覚できるようになります。
バランスを取る時、必要なのは「二つのものを同時に見る目」です。
私たちの脳はついつい、一つのものに集中しがちです。
ただ、理想としてはバランスを取る事を知っています。その経験がないからこそ、わかっていないだけなのです。
バランス感覚をつかんだのであれば、一人で散歩している時にだってそれを大切にし、磨く事が出来ますが、なんとなく後ろと前でバランスを・・・と思っているだけではなかなかうまくいかないかもしれません。
前後のバランスが取れた時、どれだけ抑えられようとも、前進する勢いを止められる事はありません。
前へとただ進めばそこには前方向への気配が生まれて、それを容易く取られます。
しかし、尻は一瞬後ろへと進むのです。この一瞬を相手の身体の反射は逃しません。頭で止めるぞ、止めてやるぞ、と思っても、瞬間的に後ろへと下がる相手をつかまえる事はできないのです。
その気の抜けた瞬間、頭によってバランスを取られた事で生まれる体幹部の全身が重さを力にして相手へと入ります。
気配を無く進む数十キロの塊に対応するのが難しいのは当然です。
この「試す稽古」のおかげで、自分が特別な事をしている、これまで知らなかった動きが出来ている、とわかるのです。
自分にも出来る、とわかれば、後は淡々と日常生活で活かすだけです。
この意識の変化が今後の何十年の生活の基盤になります。
疲れていても動ける。前へと行くのではなく、後ろへと踏み出せば前へ行く。こんな観念を得て何十年かを過ごしたならばどうしたって特徴ある人生になるわけです。
世の中はこの先もより、機械化、コンピューター化、サービス化をして、身体を感じながら生きる機会を奪っていきます。
楽な生活、平和な社会にはなるかもしれません。しかし、楽を求めただけで幸せになれるとは甘すぎます。
人はちょっと変わっているのです。ちょっと大変な事を自覚してそれに向き合い、そこで楽しみを得られた時幸せになったりします。
身体感覚を探り、組織にまみれず、一人稽古をして生きる事を勧めているのは、社会が生む大きな機械化の流れに入らないようにするためです。
自分の人生をちゃんと生きる、そのための方法が一人稽古です。
人生はこんなに簡単に楽しく、幸せにできるのだ、と身体を探ればわかります。
辛い時にはなかなか他を見る余裕はないでしょう。何とか、その辛さを乗り切るために無我夢中で過ごせばいいと思います。
ただ、ちょっと余裕が出来て、このままでいいのかなぁ、と思う時間を得た時、また、本当に辛くて、もう他の何物にも頼れない、と絶望した時、自分の身体を探る生き方を試してみるのをお勧めします。
自分の身体を自分一人で探る時、そこにリスクはありません。
ただ必要なのはそう思うだけ。本当に簡単です。
最初はわけわからないかと思います。でも、それを叱る人はいません。
こうして言葉に残しているのも、こんな記事でも、目にした時、ちょっと思い出してもらい、身体を探りなおすきっかけになったらなぁ、との思いです。
ぜひ、勝手に、自由に、身体を探ってみてください。
※甲野先生の名古屋稽古があります。
ぜひ、ご参加ください!
「甲野善紀先生の名古屋稽古」
稽古日時:11/17(日) PM1:00~PM3:30
稽古場所:浄泉寺
会場住所:名古屋市緑区鳴海町字上中町9
アクセス:名鉄本線鳴海駅から徒歩5分
参加費:8000円
参加資格はありません。見るだけ、聞くだけでも参加可能です。
服装自由、持ち物自由、受講スタイルも自由だし、入退室も自由です。気楽にご参加いただけます。
申し込みはウェブサイトから。
http://www.karadalab.com/