心の世界とその先にあった世界
なんと!随分とnoteの更新が出来ないままでした。
つくば、東京稽古の際、心の世界の奥にまた新しい世界が見つかって、なかなか言葉に出来ずにいたようです。
やっと、新しい世界にも慣れ、落ち着き、当たり前感が出来てきたので、ここで言葉に残しておこうと思います。
心の世界の先に見えたもの、それは「教え」の世界でした。
教えとは、宗教的教義があればそれでいいし、お天道様が見ている、みたいなぼんやりとしていてもいいし、怖い先輩、先生、上司のようなリーダーでも構いません。
私たちの心は常に、何かの影響を受け、存在しているのだ、と気づきました。
昔ならば、会社も学校も、国だって変えるのには苦労したでしょう。
さらに、どこに行ったって、現代のようにインターネットはありませんし、便利な機械やサービスもありません。ご飯を食べるのも一苦労です。
現代には自由があります。
この時、「そうはいっても・・・」と思うならば、それこそれが「教え」であり、心を導くものとして存在しているもの、と言えます。
心を動かすものがある。
心の世界に気づいただけでも大感激でした。
それまでずっと、身体に我慢をさせ続けていたのだ、と反省し、これからの人生がガラリと変わる可能性を感じました。
見つけた心は身体のように確かなものではなく、その不確かさこそ一番の特徴で、不確かさを維持すれば、衝突もなく、喧嘩をせずに生きていける、という喜びを得ました。
ただ、私はやはり欲深いようで、その不確かさのありがたさも感じながら、何とか「うまくやりたい」という気持ちが出てきたのです(笑)。
その欲を叶えてくれるものはいるようで、そこで見つかったのが、心の世界のさらに上にあるものでした。
私たちの身体は地面に立っています。
この先、宇宙で暮らす人類も出てくるでしょうが、今はこの地面無くては生きていけません。
地面の上にあるのが身体です。
そして、その上にあるのが思考する頭。
その思考する頭の上に心の世界がありました。
ここまでは言葉にしていたところです。
そして、その心の上にまた新しい世界がありました。
それが教え、神仏の世界です。
神仏
心
思考
身体
地面
こんな感じです。
これまでずっと、身体と思考を手掛かりに「動き」を探ってきました。
そしてそれは武術として。他者がこちらを邪魔してくる状況を基本として、探ってきました。
その結果、どれだけ邪魔をされようが人間には自由がある、とわかってきたのです。
その後、たまたま寝込み、その際、枕を捨ててみた事でこれまで感じた事のない自由を見つけて思考の世界そのものへと入り、そのつながりで心の世界が見えてきました。
心の世界は粒粒に似た世界。
一つの心を大切にする事なく、手放し続ける事で、心の世界をキープできることがわかってきました。
心の世界にいる事で、結果的に安心を得られたのです。
この安心をキープしたままどうにかして「動けないか」と考えた時、自然と「上」が見えてきたのです。
動こうとすれば、反射的に身体が動きます。
何かをしよう、と思えば、身体が動きます。これは普通の事です。
それしか武器が無いのであれば、何度やっても、そうでしょう。しかし、それでは身体に意識が行き、心の世界がすぐに身体の世界に落ちていきます。
「動く」と思った時、下だけではなく、上からでも動ける。これを知れば、それほど無理なくても、身体に任せず、動きを生み出す事が出来るようです。
心がここにある。そして、それを動かせさえすれば、自然と思考と身体もついてくるのです。
これは「上の空」という状態とも似ている、と言えます。上の空については以前にもその効用について書きました。
ただ、以前と違うのは、下から上の空を想うのではなく、上から直接心を動かす事で、結果的に上の空に見える、という点です。
他力本願という言葉があります。
これ、私にとっての長年の疑問でした。
襲われているその瞬間、どうして、他力に任せられるだろうか?と信じられなかったのです。
しかし、心の世界を動かすさらに上の世界を見るようになり、これはまさに、「他力」と思えるものであり、その力に従ったなら、自然とこの身体は動いていしまう、と思えるようになってきたのです。
心の世界とそのさらに上の世界を探るにあたって、ついつい神仏の世界を考えてしまいます。
神仏の世界に残っている言葉が力になるのです。
自分一人で考えるのにはいいのですが、神仏についての言葉はそれぞれに思いがあり、こうして言葉にすると、衝突も生まれます。
だからこそ、言葉にするのにためらいがありました。
ただ、ようやく、言葉云々、というのではなく、身体が動き出しました。
私の言葉が間違っている、というのであれば、そうでしょう。
ただその時にだって、私の動きは変わりません。
こんな事しかできませんが、と動きを見せ、伝える事ができます。
どれだけ有難い言葉、教えを持っていても、ちょっと相手が力を入れて私の動きを抑えて動けなくなら意味がありません。
まず、動ける身体がある。私の基準はいつもそこです。
その動きを何とか知った言葉を組み合わせて伝え続ける。これまでずっとそんな事をしています。
もう少し、勇気をもって言葉にしてみます。
そこに違和感を持たれる事もあるかもしれませんが、そう思えたならば、ぜひ、「動き」を通してこの世に表現がどうされているのかを試してみてくれたらいいと思います。
人間はもっと、そのままで自由になれる、そんな気持ちになってくれる人が一人でも増えてくれたならいいな、と思います。
※いよいよ今週開催です。今年最後の甲野先生の稽古会!ぜひご参加ください。
「甲野善紀先生の浜松稽古」
稽古日時:2024/12/21(土) PM3:00~PM6:00
稽古場所:浜松市 蒲協働センター 和室(カバキョウドウセンター)
会場住所:浜松市中央区子安町309番地の1
参加費:8000円
参加資格はありません。見るだけ、聞くだけでも参加可能です。
服装自由、持ち物自由、受講スタイルも自由だし、入退室も自由です。気楽にご参加いただけます。
申し込みはウェブサイトから。
https://www.karadalab.com/archives/1872