『からこといのち通信 №3』9月号

『からこといのち通信 №3』9月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)

長引いた雨天の鬱陶しさから、いきなり天を剥ぎ取ったような猛暑の連続。
天候の激しい変化に身体がついて行けない情況の中、皆さま元気でお過ごしですか。ご自愛くださいね!
最近になって僅かではありますが、秋の気配が空気に混じり始めています。もう少しの辛抱かと。
野口体操でからだを耕し息を深くして、今は静かに変化をやり過ごし、秋の実りを待ちましょう(笑)
通信 №3ご覧ください。

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【1】 ジェットの突き(からだとことばといのちのレッスンより)
【2】 2020夏合宿より(Art&Learning 小石原)
【3】 ばんのMEMOから
【4】 オンラインレッスン開催予定
【5】 その他のワークショップ等 開催予定
【6】 あとがき

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【1】ジェットの突き(からだとことばといのちのレッスンより)

手刀の指先を突き出す。その瞬間に「シュッ!」と鋭く息を吐き、相手の胸の真ん中を息で貫く。

息が届いているか?向かい合った相手に聞いてみる。「全然来ない」「ちょっと来た」「途中で消えた」「まだまだ」「来た~!」などなどの感想が出てくる。

指先から「ジェット(息の奔流)」が出るなんて⁉と、不思議になる人がいると思うが、これは体験してみるとよく判る。

息が胸に当たるには、全身の力が必要だ。腰を割って足を地に着け、大地を踏みしめた勢いが「からだ」を通して、突き出した指先へ吹き抜ける。

上手くいった時は、相手の胸に息の勢い(ジェット)が届くのが分かるし、何より全身の力が集約し相手に向かって開かれる。なんとも言えない解放感と同時に、清々しい緊張感に満たされる。

これは体験でしか掴めない、言葉で説明しきれないところだ。

私のレッスンはもっぱら、この「言葉で説明が出来ない、体験を通じてしか伝えられない出来事」を扱う。しかしながら、決して神秘主義や超能力を扱うわけでは無いことは、体験者に聞いてもらうしかない。

説明のつかないものは付かないままに、体験を楽しめば良いと私は思っている。それが遊びの本質だろう。

説明やマニュアルが添付されると、それは遊びではなくなる。遊びとは体験世界を思慮を入れずに体験のままに生きることだ。解釈や指導が入れば台無しになる。

「相手の胸に(息の)ジェットを届けよう!」だけで良い。組んだ相手とああだこうだと「からだ」で工夫しながら「シュッ!」を繰り返して、自己の常識の向こうに飛び出し、その成り立ちを見れば良い。『やったー!』という言葉は、こう云うときのためにある。

と言っても、黙っていると誰にも相手にしてもらえないので、私は仕方なくPCのキーボードを叩いて、説明している(笑)

このレッスンは、感覚交流世界への入り口を開くためにある。

こんどは二人で向かい合って同時に互いの胸を突く。右の手刀でジェット!(シュッ!)左の手刀からジェット!(シュッ!)、右の手刀で・・・!と腕を交差しながら二人で一緒に繰り返す。だんだんテンポ(スピード)を上げて行く。「シュッ!」への意識的な努力を越えて、息の流れ合いの中へと二人とも巻き込まれて行く。

気合いのようなものを、全身で大きく支えておけば、ほとんど自動的に手刀が交互に繰り出され、努力なく無限に続くようなお互いの流れ合いの中に入る。全身は緊張から解放され静かである。これが『集中』の成り立ちだ。私たちが普段使っている「集中」とはだいぶ意味が違う。

自分と他人という区別以前のところで人間関係を支えている、普遍的な共有世界へと降りて行くこと。赤ん坊の世界観と言えばよいか、自他が分化する以前の一如のところ、、、。これも言葉では説明できないところか?

何れにしても、自己が空っぽになることで、その場の人たちの「からだ」に相互の流れ合いが動き始める。お互いに透明な流れのプールに身を浸し合っているようなものだ。

個々人は距離を隔てて、ポツンポツンと空間に置かれているものではない。、互いにエーテルのような流れの中に身を浸していて、、、。エーテルは個人の身内にも浸透している。内側の動き(こころの変化)はエーテルを通じて互いに響きあう。脳(意識)による情報発信は必要がなくなる。

この自他の無分別の世界を土壌として、物語の世界は浮かび上がってくる。様々なアートも、その土壌の上に姿を結晶させるものだろう。レッスンの成り立ちの基底である。

私たちは「自他」という距離を前提として生活している。これは日常生活が成り立つためには、大切な前提である。その区別が無ければ大変なこととなる。

しかし、時にその区別が強くなりすぎると、人間関係の温もりや柔軟性が失われ、ギクシャクとした堅苦しいものとなる。その苦しさを解こうと、コミュニケーションの「テクニック」が取り沙汰されるが、それは代用品でしかなく、人は充足を求めて次から次へと、それこそ永遠に、一時的な充足感を求めて渉猟する。

「共にエーテルに身を浸す」というのは、それこそ説明は付かないが、体験としては私たちの感覚の基底に息づいているものだ。お互いにそこに根を下ろすことで、他者への信頼感や安心感が初めて共有される。

エーテルに互いに身を浸したところに、互いに他者の変容が見えてくる。土壌の中から色とりどりの花々が咲き這う。一人一人の個性が花ひらくのだ。様々な異なる個性が十分に開かれるとき、そこはお花畑となることだろう。それが私にとっての演劇的空間であり、賢治童話に繋がるレッスンの場だ。

(記)瀬戸嶋 充 ばん

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【2】 2020夏合宿より(Art&Learning 小石原 記事)

七月中旬、感染予防に配慮しつつ「からだとことばといのちのレッスン」滋賀合宿を行いました。講師は瀬戸嶋充(ばん)さん。コロナ禍でリアルな現場でのワークショップ参加は随分、久しぶりでした。

今回、新たな試みをしました。合宿前のオリエンテーションとしてオンラインで準備会を二回実施しました。野口体操の体験と今回のテキスト、灰谷健次郎『ワルのポケット』の読書会、そして、コロナの感染予防についてのそれぞれの考えや不安を共有する時間を作りました。

野口体操の体験会をすることでどんなことを合宿で行うかのイメージがもてたり、読書会をすることで、合宿でこの物語の世界に入っていくことの期待感がもてたりしました。参加する皆さんとの出会いや合宿への期待感が高まったこと、そして感染予防についての考えを交流したことで、合宿が皆のものになっていったような感覚がありました。

合宿中の大まかな内容としては、野口体操でからだを開き、基本的にはマスクを着用しての竹内レッスン(声のレッスン)、そして『ワルのポケット』と『鹿踊りのはじまり』の朗読劇の稽古でした。

私は3月からオンラインのダンスのレッスンをよく受けるようになりましたが、空間の中にからだがあるということがいかにパワフルなことであるということを改めて体感することになりました。誰かのからだが開いてくると、そこに影響されていく。この響き合いは空間を共にしているからこそ起こることです。

レッスンを受けている最中、涙を流される方がいました。それはデトックスのように思われました。自粛生活が長く続き、色々なものが滞りやすくなっています。からだを緩めて開いていく中で、そういった滞りが涙とともに出ていったのかもしれません。

『ワルのポケット』…冒頭、子どもたち…ラムネ玉をのぞいて「夕日の匂いや」「ええ匂いがしよる」と会話をする印象的なシーンから始まります。この子どもたちの間でいったい何が共有されているのでしょうか。それが何かを考え作っていくという作業の連続でした。気心しれた人もいれば初めましての人もいる…その人たちとフィクションの世界に入っていきます。

その物語の旅をする中で、何か目に見えないエネルギーが循環しだすのです。この作品のポイントは人と人との関係性…という一点だったように思います。稽古をする中で、参加者の皆さんと確かなつながりが生まれました。瀬戸嶋さんが「どうなっていくのか(どこに着地するのか)オレにも分からないけど、やっていくことでしか見えてこないからとにかくやりましょう」と、よく言葉にされていたのが印象に残っています。その言葉にとても勇気をもらいました。

合宿中は、ずっと雨が降っていました。外とは隔たれた異空間でフィクションの世界にどっぷりと入ったのだと思います。一通り場面を通した後、もう一度、冒頭のシーン「夕日の匂い」を言葉にした直後、さあっと雨がやんで夕日が空を柔らかく染め、大きな虹がかかりました。まるで、この物語の旅のフィナーレを飾ったかのような空でした。

灰谷さんが元教師ということを今回の合宿で話題に上がました。『ワルのポケット』の子どもたちや新人の教師は「学校」という枠の中に入りきっていない印象がありました。灰谷さん自身、「学校」というものに傷ついてきたのかもしれません。灰谷さんの生き方、まなざしに改めて感じるものがありました。

『ワルのポケット』を読んだ後は、宮沢賢治『鹿踊りのはじまり』を読みました。賢治さんの心象風景…言葉に出会って、鮮やかに風景が立ち上がってくるあの感触。賢治さんの言葉は特別な力があるのだと、賢治さん以外の作品を読んだことで、そのユニークさを体感することができました。「もっと見て!風景と出会って」「そうだ。今、見えたね」「よく見て。言葉と出会って」瀬戸嶋さんのナビゲートで賢治さんの豊かな言葉の世界に入っていきました。

『ワルのポケット』を十分、読んだため、その空間には「つながり」がありエネルギーや生命が大きく動いていました。そこは失敗のない世界。皆さんの間で動いているものを信じて何が起きても進んでいける感触がありました。この体験について、未だに言葉に仕切れないのですが…愛だな…と感じるのです。

このレッスンに関わり、早いもので4年がたちました。合宿でのレッスンを通して得たことの大きさは計り知れません。また、この合宿に継続して参加されている方、一度だけの参加の方、様々な人とお出会いしましたが、皆さんが勇気を出して線をこえて一歩をふみだされる姿を数々、みてきました。皆さんのそのメタモルフォーゼが面白いといいますか…「愛しい」といった方が正確かもしれません。

瀬戸嶋さんは徹底的にその変容に付き合ってくださいます。「その人の中に出たがっているものがあるからオレはそれに付き合うんだ」と以前、何度かおっしゃられていたのをよく覚えています。プロフェッショナルの役者ではなく、常に市井の人と共に歩んでこられた瀬戸嶋さんだからこそ見える風景なのだと思います。

先日、何人かの合宿参加者とオンラインで「瀬戸嶋レッスンの継承」について話をしました。今もまだお元気でバリバリとやっておられますが、20年、30年先を見据えると…このレッスンを継承する人が育っていく必要があるように思っています。

残念なことに瀬戸嶋さんのレッスンに出会える人はごくわずかです。しかし、このレッスンを必要としている人は多くいると確信しています。そして、society 5.0と呼ばれる昨今、からだは今よりもっと悲鳴を上げるにちがいありません。瀬戸嶋レッスンはそんな時代にあって、とても大切なことを我々に気付かせてくれるのです。

(Art&Learning小石原さんの感想を掲載させて頂きました)

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【3】 ばんのMEMOから

レッスンについて(描写)
内面の吐露として(私の内的宇宙から顔を出す言葉)

難しいのは、包み隠そうとする、或いは虚飾を重ねようとする欲求から、言霊そのものを守ることだ。純粋にことばの輪郭に手を加えることなく、なんとも頼りない「ことば」そのものにスペースを空ける(提供する・譲る)ことだろう。上手く排泄できた解放感?

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(話し)言葉は、何かをやらかす。出合いとしての言葉。

対象の輪郭をなぞるのでも良い。ゴリラになって自らの胸を打叩くのでも良い。言葉を語ろうとする、心の動き(意識)が緊張となって、からだを締め付ける。それを打ち壊すのだ。

舞台というのは、怖い場ではある。自分(自我)の主張が許されない。

自分のやり方や、正しいやりかた。そんなものに手を伸ばしたくなるが、、、?

そのとき「からだ」が阻害される。

集中とは他者に向かうのもそうだが、眼の前の対象に触れるのもそうだ。その意味は意識の手綱を手放すところに在る。対象と直(じか)の関係に入ることだ。動的な関係に入るとも言える。流れ合いの中に飛び込むことでもある。

恥をかくことかも知れないが、それは自我という胸像を叩き壊すことでもあるだろう。集中とは内を向くことではない。痛みや恐怖に捕まりしがみ付くこと無しに、世界に自らのいのちを晒すことである。

ひび割れ砕けかけた胸像の内側より、輝きだされる光がある。「繕う」ことから一歩前に足を踏み出せばよい。

「ことば」を語るために、「ことば」という「いのち」が晒しだされるための、情況(心的?身体的?)を調えなければならない。そして結局のところで、私たちに出来ることは「ことばを語る」ことでしかない。

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舞台上で本を読んで理解しようとする行為。分からなくなってセリフを探すことに問題は無いだろう。ところが舞台の上で台本を見て理解を求めることはそれとは違う。理解から外れることが成り立たない。感情=息づいているもの(生きもの)を、無礙にする。殺人行為である。

「理解が先ずあって、それに乗じてことを成す。」そうではなくて、「先ず何かを為す(生す)。」そこが始まりだ。そして裸のままに「こと」や「ひと」との出会いの中を前へ前へと進んで行く。「からだ」という全体性が働き始める。

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崩れるから救われる。(「からだ」で)「何かをやらかせ!」と、私は言う。言葉を語ることに囚われてしまうことで、言葉は圧死させられる。お手本に倣って正確に書かれた文章のような「ことば」の発声・朗読・セリフ・そして話し言葉。

正しさというキャタピラに蹂躙された「ことば」。その姿は平面に熨(の)された印字としての「ことば」。そこに「いのち」を吹き込むのが「からだ」の突破・解放・踊り唄いである。

解釈というのも厄介である。自分の解釈に則ってここはこうだからこう表現すると、自分のやり方を主張する。結局それは自我の価値観の投影でしかない。

「語る」から「語らされる」へ。「私が」から「いのちによって」へ。

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声の彩り。「こえ」には彩りがある。それは声から意味を聞き取ろうとする常識的態度によって蹂躙される。

高校時代、ドビュッシーの『子供の領分』だと思ったが、音楽鑑賞の授業でレコードを聞かされた。曲が始まると、どこかを歩いている映像が浮かんできた。その体験された光景をそのまま感想文に書いたら、教師からエラク褒められたことがある。なんとも奇妙な音の響きが今でもからだの中に残っている。メロディーと言えるものは無かったように思う。

今思い返せば私は、音楽や音声などと、視覚的なイメージや色彩との繋がりを意識する傾向が強かったようだ。これは最近知ったのだが共感覚というらしい。私の場合は聴覚と視覚の結びつきが強いようだ。そう言えば、高校時代に「お前は変わったやつだなぁ」と友人たちから何度も言われた覚えがある。

当時はFM放送が開始されたばかりのことで、クリアーな効果音を盛り込んだラジオドラマをやっていた。テレビ映像よりももっと鮮やかに、私は音声だけでドラマに描かれた光景=映像に夢中になっていた覚えがある。

レッスンでは宮澤賢治さんの童話に耳を傾ける機会が多いが、集中が深まって来ると、語られる声音に彩りが見えてくる。言葉を表す声の一音一音が様々な彩りを発して観える。

私にとって声は「聴く」だけではなく「見る」ものでもある。声が届いていない。向こうで止まっているなどと言う。声を向こうの壁にぶつけろなどとも言ったりする。

これはちょっと話がズレるかも知れないが、通りすがりに自動車のエンジン音を聞いていると、背後に遠ざかる車の動きが見えてくる。稽古場で舞台に向かって集中し演技指導をしているとき、背後で稽古を眺めている面々の姿が見えたりする。背中に眼があるわけでは無いのだが、寝転がったり足を組んだりしている様子が判るのだ。

眼は見るためにある。耳は聞くためにある。もう少しいえば、鼻は嗅ぐためにある。舌は味わうためにある。という常識が私には当てはまらない。感覚的にはかなり混乱しているのかもしれないが(笑)

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活字とは眼で見るものだ。脳(意識・自我)との結びつきが強いのだろう。本を眼で読むときは思考がフルに活動しているのだろう。眼で意味を追って走る。

言葉を声に出して読むとき、言葉のリズムに乗って、からだの奥から息が弾み浪打ち出す。言葉と私が一つになって踊り出す。

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「私は文章を書くのが苦手だと、繰り返し言ってきたように思う。それは相手に分かるように書かなければいけないという思いが強かったからだと思う。話についてもそうだ。思い浮かぶままなんてとんでもないことであった。けれど、人に通じないとしても、私の中から浮かんできた言葉は、私から生まれたものに違いない。それを人に分かるように体裁をつけるなんて。そんなことしていると、私の中から真っすぐに育とうとしている、言葉のいのちの芽を摘み取り、押し殺すことになるだろう。」そんなことを考え乍ら『MEMO』をコピペしてみた。(せとじま ばん 記)

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【4】 オンラインレッスン開催予定(9月~10月)

人間と演劇研究所オンライン教室『 野口体操を楽しもう 』

・5月末、ZOOM利用でスタートしたのレッスンが3か月となりました。野口体操は実践することで何かすぐに効果が出るというものではないのですが、参加者の方々の意識と身体の関係が着実に変わってきているように思います。
・『野口体操』は体操と名がついていますが、筋トレのように意識的に身体を鍛えたり、姿勢を調整することはやりません。「体操」と言いながら、身体の隅々までの繊細な「感覚」を、様々に身体を動かしながら、育て養うことを目的としています。平たく言えば「感じる力を回復する」のが実技の課題になっています。それは自然の感性を取り戻し、その感性に基づいて行動=生きて行くことを目指します。いま流行の『リベラルアーツ』です。
・「意識を大地に下ろし息を深くして日々を送る」ことが、レッスンの主な課題になっています。コロナ騒動を乗りこえて行く大事な手掛かりは、息の深さを取り戻して行くことにあると、私(瀬戸嶋)は考えています。

日時:
① 木曜 昼 14:00~15:30(第1、3週、5週)9/3・9/17・10/1・10/15・10/29
② 木曜 夜 20:00~21:30(第1、3週、5週)9/3・9/17・10/1・10/15・10/29

③ 土曜 朝 10:15~11:45(第2、4週)9/12・9/26・10/24
④ 土曜 昼 14:00~15:30(第2、4週)9/12・9/26・10/24

⑤ 日曜 朝 10:15~11:45(第1、3週、5週)8/30・9/6・9/20・10/4・10/18
⑥ 日曜 昼 14:00~15:30(第1、3週、5週)8/30・9/6・9/20・10/4・10/18

※ 何れも1時間30分 前後15分をZOOM設定などの予備時間として開室します
※ ①~⑥はコースではありません。単発で参加日を選択してください。

参加費:1,650円

定員:10名

申込み:参加日時・名前・電話番号をメールでお知らせください。( karadazerohonpo@gmail.com 瀬戸嶋充 宛)

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【5】 その他のワークショップ等 開催予定

・新宿大久保ワンデイリアルレッスン 9/13(日)9:00~15:00
・新宿大久保リアルレッスン 9/27(日)9:00~12:00

詳細は順次、人間と演劇研究所HP https://ningen-engeki.jimdo.com/ にてご案内していきます。

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【6】 あとがき

・№3をお届けします。またまた三日坊主にならないものか、ハラハラしていましたが、今月も配信が叶い嬉しい限りです。
・オンライン教室にぜひいらして下さい。世間のコロナストレスで、意識しない次元での心身の無理やり・頑張りが膨らんできているように思います。野口体操で心身の緊張をほぐしたときの安心感・安定感を体験してみてください。元気が出ますよ。
・最近は東京を離れて、色々な地域でリアルレッスンをやりたい気持ちが、沸々と湧きあがってきています。どなたか呼んでください!
・感想や質問、アイデア、掲載記事、活動支援などなど、ご協力をお待ちしています。よろしく願いします。

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◎ レッスンについてのお知らせその他は、人間と演劇研究所ホームページでご案内しています。https://ningen-engeki.jimdo.com/

◎ 質問・感想・注文・ご意見などはメールでお願いします。karadazerohonpo@gmail.com

人間と演劇研究所「からだとことばといのちのレッスン」教室代表 瀬戸嶋 充 ばん

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ご覧いただきありがとうございました。いつの日かお目にかかるのを楽しみにしています。

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