久保藤次郎との出会い
いきなりですが、これを読んでいるみなさまはおいくつでしょうか。
ぼくは愛知生まれの愛知育ち、1981年生まれの42歳。おじさんも良いとこです。
そんなぼくですが、昔からずっと愛しているものがいくつかあります。
今日はその中の一つ、サッカーについて語りたいと思います。
長くなると思いますので、「さわり」である「出会い」について。
さて、81年生まれと言うと当時の子どもにとって、つまりぼくにとって、何があったでしょうか?
ファミコンの登場、SDガンダムの流行、ファミコンはいつしかスーパーファミコンとなりました。
小学生の頃にセーラームーンが始まり、14歳の頃にはエヴァンゲリオンが大流行。高校生の頃にはヴィジュアル系やメロコアが流行り(ぼくもバンドをやっておりました)、大学を出ると就職氷河期。
しかし愛知の子どもたちには何はともあれ中日ドラゴンズです。
当時のぼくからしたら監督とは星野仙一であり、ホームランとは落合博満のことを指していました。
ぼくも愛知近郊によくいる青地に白で「D」の刺繍が施された帽子を被った子どもでした。
余談ですが、今は中日ドラゴンズとは袂をわかちました。フロント陣が腐り切っていると実感したからです。
ぼくが色んな言葉を使うよりこちらを読んでいただければ早いかと。
ところが小学4年生くらいから、何だか周囲が変わり始めました。
愛読していた「コロコロコミック」の巻頭は見慣れないキャラクターたちに占められ始めました。ヴェルディとかガンバとか聞いたことのない言葉が飛び交いました。
そう。「Jリーグブーム」の到来です。
それは正にブームでした。「オレーオレーオレオレオレ」とという妙な歌が流行り、顔に色んなペインティングをしていた人たちが現れ、TVのスターはいつの間にか「カズ」「ラモス」「ジーコ」になりました。
まあ、今から思えば、ナベツネが第2の「巨人軍」を作ろうと画策した人為的なブームで、現在のJリーグの理念とはあまりにも食い違いがあり、批判が多いのも分かります。
が、当時の子どもにとっては絶大な威力がありました。
少なくともぼくはあのブームが無ければ、サッカーともグランパスとも、数々の伝説的なプレイヤーたちとも出会ってないので、その一点においてはナベツネに感謝しています。
閑話休題。
そんなわけで、ぼくは小学4年生の時にサッカー部に入部する事になります。
(長くなりましたので、続きはまた明日)