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【書評・生活指導】『自由論』から考える生活指導のあり方

J.S.ミル著『自由論』を読んだ。冒頭に「個人に対して社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界を論じたい」とあるように、本書のテーマは市民の社会的自由と公権力との関係における自由である。

私達教員は「生活指導」の名のもとに、しばしば生徒の自由を奪う。この「生活指導」という権力行使は、本当に正当なのだろうか。生徒にとって納得感のある指導を行うためにも、「自由と権力」の視点で、生活指導のあり方を見つめ直してみたいと思う。

力の行使が正当化される原理

「文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかの人々に危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。」

ミルは、行動の自由への干渉が正当化される場合をこう定義する。加えて「相手のためになるから」、「相手をもっと幸せにするから」といった理由は、忠告や説得の理由にはなっても、強制や罰則の理由にはなりえないと言う。「〜したほうがいい」と「〜しなければならない」を明確に区別しているのだ。

私達教員が行う生活指導は「〜したほうがいい」と「〜しなければならない」を一緒くたにしてしまっているのではないだろうか。

「〜したほうがいい」という説得のはずが、いつのまにか「〜しなければ…する」というように、そこに罰則(叱責を含む)が付されてしまっていることが多いように感じる。”ブラック校則”と呼ばれるものは、まさにこの典型だろう。

「〜したほうがいい」というだけだったものが「私が言っても聞かないのでルール化してほしい」「一部の生徒が守っていない。不公平だ、統一感がない。」といった理由から、強制力のあるルールになってしまう。そして教員は「ルールだから」の一点張りでこれを生徒に押し付ける。

あなたの学校では、こんなことが起こっていないだろうか。次の生活指導場面では、根本まで立ち返って考えてみよう。その指導は「他の人々に危害が及ぶのを防ぐため」なのか、それとも「相手(生徒本人)のためになるから」なのか? 

もし後者なら、その指導は強制であってはならない。「こうしたほうがいいと思う」という説得に留めるべきだ。そして、この”説得”で生徒に影響を与えるのが、私達教員の腕の見せ所ではないだろうか。

自分の誤りを自分で改める

「人間は経験と議論によって自分の誤りを改めることができる。」

強制と説得を区別してもなお、説得としての生活指導を行うべきである理由が、この言葉に示されているのではないだろうか。

ミルはこう続ける。「経験をどう解釈すべきかを見極めるために議論が必要だ。間違った意見や行動は、事実と議論によって次第に改められていく。」

まさにこの”議論”をするために、生活指導を行うべきではないだろうか。間違った(教員から見て間違っていっると思える)行動に対して、「それは間違っているから止めろ。さもないと罰則だ。」と強制するのではなく、「それは間違っていると思う。止めた方がいいと思うが、どうか?」と問いかけ、説得する。生徒はこの指導=教員の考えに対して、生徒も自分の考えを述べる。

この議論を行う中で、双方納得の行く考えを見つけ、次からの行動指針とする。これが生活指導のあるべき姿ではないだろうか。

もちろん、この指導には手間も時間もかかる。従来であれば罰則への恐怖を背景に「こうしろ!」と凄むだけで済んでいたのだ。だがこの”指導”は強制であり、生徒は「自分の誤りを改め」たわけではない。だから同じことを繰り返すし、「見つからなければやっていい」と考えてしまう。

しかし議論して納得し、新たな考えが次からの行動指針になれば、生徒は自分で「自分の誤りを改め」ることができるだろう。

間違った行動を取った生徒を納得させるのは難しいかも知れない。しかし、納得させられる理由のない指導なら、そもそも必要ないもの、教員が正しいと思いこんでいるだけ、だとも考えられないだろうか。

少なくとも指導を行う教員が自分自身の中で、なぜその指導を行う必要があるのか、「ルールだから」以上の納得のいく理由をもって指導に当たるべきだろう。

子どもは自由の対象外?

ミルは「子どもや法的に未成年の若者は対象にならない。」としている。しかし同様に「遅れた社会も対象から除外してよい」とする。「野蛮人に対しては専制政治が正当」とまで言い切る。

ミルの生きた19世紀は植民地化の時代である。その時代背景がミルをこのような考えに導いたのだろうが、21世紀においては、これはいき過ぎた考えであろう。手助けすることや成長を支援することと、自由を奪って強制、支配することは違う。

まとめ

その生活指導は強制か、説得か。説得なら押しつけになっていないか、議論になっているか。議論になっているなら、納得できる理由があるか。こうしたことを自分の頭で考えた上で指導に当たるべきではないだろう。

「ルールだから従え。さもなくば罰則だ。」という専制政治的強制は”指導”、”教育”と呼べたものではないと、私は思う。

今回紹介した本

著 者:J.S.ミル
訳 者:斉藤悦則
出版社:光文社(古典新訳文庫)
出版年:2012/6/20

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