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志賀直哉×里見弴×暗夜行路②
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ところで、話を進める前に、ひとつ確認しておかなくてはならないことがある。
当時の「同性愛」の認識についてだ。
同性を愛していたとなると、現代では、その人は同性愛者、ないし両性愛者、もしくはその傾向がある、と考えられることになるだろう。
その発想でいくと、里見が「志賀に惚れていた」と書いたならば、
二人が同性愛者、または両性愛者であることをカミングアウトした
少なくとも里見が同性愛者、または両性愛者であることをカミングアウトした
……と、考えざるを得ないことになる。
そう考えると、ますます「本当か?」という疑問が湧いてくるだろう。
実は、里見弴は女性に大変モテた。
小柄で色白、洒脱な粋人だった里見は、性格が明るく、気配りと会話に長けていた。
里見の姉は後年、「何も見ていないような気楽な顔をしているのに、自分が食事中に食べられないものがあると、何も言わなくてもパッと気付いて、取り替えてくれるような気遣いがあった」と語っている。
家事全般も得意。
料理・掃除・裁縫・ガーデニングなどなど器用にこなす。
そのうえ顔立ちも美形として知られていた。
現代と「美形」の認識が多少違うので、和風のあっさりした目鼻立ちで、かの宇野千代に「あの人は綺麗な人だった、色気のある」と言わしめている。
くわえて実家は資産家。
学習院出身のお坊ちゃまで人気作家だった。
設定がてんこ盛りだ。
現代だったらさしずめ「王様のブランチ」やEテレで、ちょっと小洒落たコーナーなんかを持って、女性ファンが大勢ついていそうだ。
実際、女性によくモテた。恋人は引きも切らず。文学座の演出を手がけて地方を回ったときは、「毎日知的な美人が遊びに来ていた。それも日替わりで」という証言もある。
一方の志賀も、長身の二枚目で、運動神経抜群のスポーツマンとして知られていた。
康子夫人とおしどり夫婦だったことも有名だ。
志賀は「生まれ変わって結婚するなら、また妻(※康子夫人)をもらうだろう」と書いているし、志賀邸を訪れた多くの人が、ことあるごとに夫人を呼び寄せる志賀の大声について書いている。
そんなふたりが、実は同性愛者だったというのだろうか?
ただのゴシップに過ぎないのではないだろうか?
検証する前に、当時のひとつの流行と、同性愛についての捉え方を理解しておく必要がある。
志賀も里見も、現代言われるような意味での「同性愛者」ではなかったが……
ふたりは、大人になるまでに男性との恋を経験している。
それは二人の書き残したものや、周囲へ語った思い出などからも確認ができる。
志賀から若い頃の話を聞いていた阿川弘之は、「ある時代の志賀には、同性愛の気配がある」と書いている。
なのになぜ「同性愛者」ではない、と言えるのか。
実は二人が学生だった明治時代には、男子学生同士の恋が流行していたのだ。
そして、そのことは「同性愛」「同性愛者」というカテゴリーでは認識されていなかった。
そもそも、ホモセクシャルという言葉が生まれたのは、1869年ころ。日本でいうと明治二年で、さらにその訳語が「同性愛」に固定されたのは、大正時代。けっこう新しい単語なのである。
もちろんそれ以前に同性愛行為が存在しなかったわけではない。近代的な視点で同性との性愛をとらえよう、という切り取り方がされたのがこの時期だったということだ。
では、それ以前の日本では男性同士の性愛をどう呼んだのだろうか。
「男色」「衆道」
……などが、それに当たる。
江戸時代以前の日本で男色が盛んだったという話は、耳にしたことがある方も多いのではないだろうか。
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男色が行なわれていた事実は、古くは平安貴族の日記などにも見ることができる。
特に中世以降、武士や僧侶によって盛んに行なわれるようになり、江戸時代には町人の間でも流行した。
当時は、男色に対して「異常」や「自然に反する」という考えはない。むしろ、武士階級では男同士の絆を固めるものとして重視された。
しかし江戸時代中期以降、加熱する男色は取り締まりの対象となり、下火になっていく。
注意してほしいのは、「異常」「自然に反する」から取り締まられたわけではない、ということだ。当時の男色の取締まりは、秩序の維持のために行なわれていた。
男色での恋のさや当ては激しいものになりがちで、流血沙汰や死者が出る事件もあった。さらに、男色は「主君以外の男に忠誠を誓うこと」だから、封建制度にとっては潜在的に危険となりうる。
戦国時代が終わった以上、男同士の絆よりも、秩序を維持して社会を安定させることが求められるようになったのだろう。
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しかし、薩摩藩や長州藩などの武を重んじる藩では、なお男色は盛んに行なわれていたという。
明治維新で薩摩や長州が中央に進出してきた際に、男色も一緒に上京してきた。
新政府の中央を占める薩長の存在感は大きい。
上京してきた薩長の学生や軍人たちは、学校や軍で影響力を持った。明治期、「蛮風」として男色は次第に排除されていくが、学生社会では再び男色が広まっていった――と、このように男色の流行は理解されている。
したがって、「同性愛」という言葉が定着する前には、彼ら学生たちの恋は「男色」として認識されていたのである。
男色には、称揚される理由があった。
坪内逍遙の『当世書生気質』でも語られている。
男色派(当時は硬派と呼んだ。今は意味が変わっている)の学生桐山が一席ぶつ場面である。
どうも東京辺のやつは柔弱でいかん。
ほとんど婦人と一般(※同類)だ。
食うもんばかりじゃない。
被るもんでも そうじゃ。
いやにべらべらしたもんを被やァがって、
めかすのを男子の本分と思っちょるかしらんが、
実に笑止千万な話じゃ。
(略)
兎に角女子と交際するは、
男子をして文弱(※文科系で弱々しい)に
流れしむる原因じゃ。
(略)
女色に溺るるよりは龍陽(※男色のこと)に
溺るるほうがまだええワイ。
第一 互いに智力を交換することも出来るしなァ、
且つは将来の予望を語り合うて、
大志を養成するという利益もあるから。
日本近代文学研究会編,河出書房,1956,58-60
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女性と付き合うと、男性らしいたくましさが失われる。
しかし男同士が付き合えば、智力やこころざしを育てることができるので、男性にとってメリットがあるというのだ。
現代から見ると女性蔑視もはなはだしいが、この当時の学生たちが「つきあう」ことができる相手は、おもに吉原の遊女などで、遊女と客としてだった。
遊女と客という関係であれば、対等な相手同士が理解と共感を持って想い合うということにはなりづらい。その状況では、対等な相手と恋をする、というこの理屈は、説得力があったのかもしれない。
森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』も、当時の状況を伝える作品として名高い。
学校には寄宿舎がある。
授業が済んでから、寄って見た。
ここで始て男色ということを聞いた。
(略)
僕に帰りがけに寄って行けと云った男も、
僕を少年(※男色の受け)視していたのである。
(略)
ある日寄って見ると床が取ってあった。
その男がいつもよりは一層うるさい挙動をする。
血が頭に上って顔が赤くなっている。
そしてとうとう僕にこう云った。
「君、一寸だから 此の中へ入っていっしょに寝たまえ」
主人公は力任せに引きずり込まれるが、あらがううちに、聞きつけた学生たちが集まってきてとめてくれたので、難を逃れることができた。
受動側が『少年」と呼ばれていたのは、男色が単なる自由恋愛ではなく、いくつかの様式をそなえていたからだろう。
年齢で役割が決まっているのだ。
下級生のうちは受動側。「稚児さん」である。
上級生になると能動側に変わる。
里見によれば、学習院では「にせさん」と呼ばれていたようだ。響きからは薩摩の言葉かと思われ、男色文化が薩摩からの輸入と考えられていたことがここからも察せられる。
学校を卒業したり女性を知ると、男色も卒業ということになる。
今東光は、「学生のうちは、さんざん美少年を手籠めにしたが、女を知ったら少年への興味はなくなった」と語っている。
「ヰタ・セクスアリス」にもあるように、当時の学校は、目をつけた相手を襲って、性行為を強要することも辞さない世界だった。
実は、 里見弴も、この風潮には困っていたようだ。
小柄で色白の美少年だった里見は、たびたび乱暴な求愛を受けていた。
『小説二十五歳まで』に、当時の思い出が書かれている。
猖獗な男色の流行が私たちの級まで冒してきた。
私はまたこのために苦しめられることになった。
K―― という同級生のあばれ者に私は見込まれた。
この少年のは 云い寄ると云うような
しおらしいのではなく、まるで強迫するようだった。
「K――」やその他の少年たちから、隠し撮りされたり、学校の合宿で布団に潜り込んでこられたりと、意に染まない強引な求愛を何とかはねのけて、里見は学業生活を送ることになる。
当時の学校は男女別であったから、そのことも男色の流行には大いに役立っただろう。
折口信夫も、自伝的と言われる私小説『口ぶえ』に、学校の男色について書いている。
四年五年の生徒が、頬の白い子や
骨ぐみのしなやかな少年を追いまわることが
さかんになっていく。
小さな生徒らは、とまりがけの修学旅行の来るのを、
ひたすら恐れている。
(略)
うなじのあたりに、不意に人の息ざしを感じた。
咄嗟、安良は、ほてった燃え立ちそうなからだに
擁きすくめられていた。
『口ぶえ』の舞台になっているのは旧制の中学校なので、四年・五年というのは今の高校生にあたる。彼らは、まだ華奢な下級生たち「少年」を、性愛の対象として追いかけ回しているというのである。
主人公の安良は、いきなり自分を抱きしめた上級生から、他の上級生が安良を襲うかもしれないと告げられ、恋文を渡されて、当惑する。
しかし、男色はこのような乱暴なものばかりではなかった。
少女漫画のように爽やかな恋もあったようだ。
『口ぶえ』の主人公安良も、優しく穏やかな同級生、渥美に想いを寄せていた。
上級生が安良に寄せる恋情が、肉体的で穢らしいものとして書かれているのと対照的に、安良と渥美が寄せ合う想いは、精神的で清らかである。
少なくとも安良は、そう願っている。
しかし、二人(※安良と渥美)には
目に見えぬ力が迫ってきて、
抗うことを許さなかった。
漂うような足取りで、二人はゆらゆらとあるいて行く。
いただきに着いた二人は、衰えた顔を
互にまじまじと見つめていた。
ほの青い黄昏の風が蓬々と吹く。
彼は渥美の胸にあたまを埋めてひしと相擁いた。
さてここまで、学生たちの恋が男色と呼ばれていたことと、その実際の様子を見てきた。
他にも芥川龍之介や菊池寛、武者小路実篤、堀辰雄、太宰治、川端康成などの有名どころにも、学生時代に男色と関わったり、同性に想いを寄せたことなどを書き記したものがある。
しかしなぜこんな説明がいるのか、とおっしゃるかもしれない。
呼び方が何であっても同性愛は同性愛だ、と。
実は違うのである。
同性愛と男色は、その指す意味が微妙に違っている。
男色は男性同性愛オンリー、同性愛は女性同性愛も含む、ということもあるが、もっと大きな違いがある。
同性愛という言葉には、「異性を愛するのが正常」という価値観が、前提として含まれている。
つまり、そこには「社会の主流から外れた存在」というニュアンスがあって、社会によっては「異常者」の烙印を押されてしまう。
三島由紀夫の「仮面の告白」などは、「同性愛」が定着したあとの時期だから、同性へ寄せる想いの描写に後ろめたさがつきまとう。
しかし男色は、ただ「男性と愛を交わす」という意味しかない。
「正常ではない」という意味はそこにはない。
若い女好きもいれば熟女好きもおり、脚フェチもSM好きもいる、男性とつきあうのも一案、という程度のことだ。
男性であれば誰でも行えることであって、その人が、人格ごと「同性愛者」にカテゴライズされることはなかった。
その人はあくまでその人のままだった。
彼らにとって、学生時代に同性を愛することは、現代で高校生の男女が付き合う感覚と何も変わらなかったのかもしれない。
そこには、「この恋は異常ではないか」「自分は異常者ではないのか」というおののきはなかった。
志賀と里見に恋愛関係があったかもしれない。
その可能性が突飛、ないしはスキャンダラスに感じられるとしたら、それは現代の思考の枠にとらわれた発想だと、ご了解いただけただろうか。
もしも恋心があったとしても二人にとっても周囲にとっても、それは「ありうる」ことだった。
この時代にはこの時代で、現代とは違う思考の枠があったのだ。
――ということをご了解いただいたうえで、明治時代の人の頭になって、こののちの検証におつきあいいただけたら幸いである。
ところで明治時代は、海外の思想がどんどん取り入れられていった時代でもある。
男子学生同士の男色も変化していくことになり、「同性の恋」「男同士の恋」などと呼ばれる時代を経て「同性愛」へ変わってゆくのだが、これについては別の段で触れることにして、早速次回から志賀と里見の関係を見ていこう。
〈参考文献〉
ゲイリー・P・リューブ 藤田真利子訳『男色の日本史 なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか』作品社,2014
辻本侑生「いかにして「男性同性愛」は「当たり前」でなくなったのか――近現代鹿児島の事例分析――」『現代民俗学研究』第12号,2020
前川直哉『男の絆 明治の学生からボーイズ・ラブまで』筑摩書房,2011
前川直哉「明治期における学生男色イメージの変容女学生の登場に注目して」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390282680373249920
前川直哉「近代日本の男子学生と「男色」 : 1900年代の変容を中心に(IV-1部会 ジェンダーと教育,研究発表IV,日本教育社会学会第58回大会)」https://cir.nii.ac.jp/crid/1543950420045946496
礫川全次編『歴史民俗学資料叢書第2期第3巻 男色の民俗学』批評社,2003
井原西鶴『男色大鑑 8巻』
高木志摩子「弟、英夫のことなど」『追悼 素顔の里見弴』(株)かまくら春秋社,昭和58,164