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世界一おいしい醤油ラーメン〜祖母と私〜

 これは私の半生を書いた、嘘みたいな本当の話。
「生きる」ということは大変難しいこと。
世の中には生きることを途中で投げ出してしまう人もいる。
そして、自分の意志とは関係なく悲しいことに亡くなってしまう方もいる。
「死ぬ」ということに対する恐怖というのは、自分の目の前にその存在が現われたときに初めて実感する。
 
 私の名前は佐藤真央という。どこにでも居そうな名前だ。24歳独身。
現在の私は、東京都の飲食店のアルバイトをしている。
新型コロナウイルス問題によって東京都から休業要請を出された為、お店は休業中である。
その為、不本意ながら暇な時間を与えられた私は小説を書くことにした。
舞台は約24年前にさかのぼる。


長野

 長野県大町市に元気な双子の男女が生まれた。男の子は健(たける)、女の子は真央(まお)として、素敵な人生を歩んでいく…筈だった。
双子は1歳になる前に長野から遠く離れたカナダに行くことになる。
 1歳になる直前、カナダ人の父方の祖母が二人を引き取った。理由は両親に借金ができ、子供たちを育てることができなくなったからだった。


カナダ

 物心がついた私は、カナダのバンクーバーに祖母と弟の三人で暮らしていた。
「私には両親がいない。」と当時は悲しみに暮れることもあった。
カナダで弟の健は「Lent」、私は「Tiara」という名前のカナダ人として生活をしていた。

 しかし、父親はロシア、ドイツ、カナダ人のハーフ。母親は中国、韓国、日本人のハーフで、その子供として生まれた私たちは少し肌の白いアジア人顔であった。混血にも程がある(笑)簡単に言うと日本人の血は8分の1しか入っていない。
学校に行けば、「アジアン」と言われランチをごみ箱に捨てられたり、教科書に「アジア人」と英語で落書きされたり…と散々なイジメにあった。
イジメにあった弟は、部屋に篭り不登校になった。
元々気の弱かった弟は、家族にさえも暗い顔しか見せなくなった。

 一方私はと言うと、いじめっ子の教科書に「西洋人」と英語で落書きし返すという偉業を成し遂げていた。アジア地域になじみが全くなく、たとえ「アジアン」と言われても気にも留めなかった。しかし、イジメもヘッチャラだった勝気な私でも心が少しだけ折れた瞬間があった。
 たまに家に遊びに来ていた叔父と名乗っていた人が実は自分たちの父親で、母親が日本に居るという事実を知った時だった。
もうすぐ10歳になる年の春だった。


涙のバースデー 

父親からの衝撃的なカミングアウトの後、私たちは日本に帰ることになった。
日本に引っ越しをする前に、お別れ会を兼ねて友人たちを集めホームパーティー形式でバースデーをすることにした私は、当時一番仲の良かったEmily(エミリー)に友人の招待をお願いして、誕生日当日祖母と共にパーティーの準備をしながら待っていた。
 
しかし、時間になっても誰も来ない。

「日にちを間違えたかな」
「道に迷っているのかな」
「具合が悪くて来られないのかな…だったら連絡してくれてもいいのに!」
などと考えたが、答えは違った。

幹事のエミリーの家に電話をすると、予想外の言葉が返ってきた。
「あなたがジョンをとるから、意地悪したのよ。フフフ、誰も来ないわよ。」と。
ジョンとは、彼女と私のクラスメイトの男の子で、エミリーは彼に恋をしていた。
私がそんなことも知らずにジョンと仲良くしていたことにエミリーは嫉妬していた。
 誰も来なくなったバースデー。
祖母は一生懸命にパーティーのご馳走を用意してくれていた。私は何とも言えない気持ちになって電話を切り、祖母に抱き着いた。

「こんな筈じゃなかったのに…おばあちゃんゴメン…」

そこへ突然チャイムが鳴った。
「誰かがお祝いに来てくれたのかもしれない」と嬉しくなって急いでドアを開けた。
そこにいたのは友人でもポストマンでもなく、目出し帽をかぶった謎の男性が立っていた。戸惑う間もなく何処からともなく室内に銃声が響き渡り、リビングにいた祖母のもとへ慌てて走っていくと、リビングの窓ガラスが粉々に砕け散って目出し帽の大人が数人パーティー会場を滅茶苦茶にしていた。
私は10歳の誕生日をバースデークラッカーじゃなく、目出し帽の強盗に銃声で盛大に祝って貰った様だ。
 冗談はさておき、当時の私は当たり前だが冗談なんて言える状況ではなくて、友人に裏切られた悲しみなんて吹っ飛ぶぐらい呆然としていた。
被害としては、家もろとも滅茶苦茶にされてしまったパーティー会場、祖母の作ったご馳走、金目の物何点か。近所の友人と遊びに出かけていた弟と祖母にケガはなく、私も腕にガラスが刺さる位で済んだのは不幸中の幸いだ。
今振り返ってみると、パーティーに友人が誰も来なかったのは“逆にラッキー”だったと思った。なぜなら、事件で友人を危険な目にあわせずに済んだのだから。
 
 事件から一週間後位だったか、私は近所のストアに買い物に行った。
商品をレジに持って行った時、会計をしていた男性店員の手元にふと目がとまった。見覚えのあるリングが指についている。私のその視線に気づいたのか、男性店員が一瞬ハッとした顔をしたのを私は見逃さなかった。
「お嬢ちゃん、ちょっと奥の部屋に来てくれるかな?」と私を見て言ったが、私は買う筈だった商品を置いて近くの交番にダッシュした。
 男性店員が身に着けていたのは間違いなく祖母のリングだった!ずっと見ていた物だから絶対そうだ。後ろで何やら男性の怒号の様な声が聞こえた気がしたが構わず走った。

 ―後日、その近所のストアの男性店員は強盗犯の主犯として逮捕された。
私は自分のバースデーを滅茶苦茶にした犯人を自らの手で捕まえることに成功したのだった。(笑)そうしている間にも日本に行く日がどんどん迫っていた。
 祖母は私と弟が日本に発つ前日の夜に
「今夜は3人で一緒に寝よう」と言った。
そして静かに言った。
「どんなことがあっても、生き抜いて。誰も助けてはくれないと思いなさい。」そう言ってから、
「生きて。」と祖母は涙を流して二人を抱きしめた。
弟も泣いていた。
私は泣かなかった。
悲しみと恐怖と不安と寂しさが混じった何とも言えない不思議な気持ちでいっぱいだったから。
 その祖母の強くて重い言葉は、ある種の呪文のように私の胸の中に落ちていった。


大阪

 翌朝、父親が日本から私たちを迎えに来た。祖母は私たちが乗ったタクシーが見えなくなる迄ずっと手を振っていた。
 こうして約10年間過ごしたカナダと、育ててくれた大好きな祖母と別れた。
父親は私たちを「友人に紹介する」と言って大阪へ連れて行ったが、日本語が理解できない私たちは自分が日本のどこにいるのかも分からなかった。
 大阪に着くと、父親は私たちに言い聞かせるようにいった。
「どうか恨まないでくれ。」
父親は友人だという日本人夫婦に私たちを託して居なくなった。―ここから私たちの人生が狂い始める。
 私たちが預けられた家の人たちは英語を話さず、何故自分たちがここに居るのか誰からも説明をしてもらえなかった。
大阪について数週間は日本語が分からないストレスで疲れ果てた。唯一の救いは、同じ境遇の言葉の通じる双子の弟が居たこと。
 しかし、ある朝目が覚めると弟が居なくなっていた。家中どこを探しても居ない。家の人に聞こうにも英語は理解してもらえない。なんとか伝えようと必死に「ブラザー」と連呼した。
あまりにしつこかったからか父親の友人が拙い発音で「ホスピタル」とだけ言った。
 弟と私は心臓が悪かった。双子は心臓病になりやすいと何処かで聞いたような気がする。私が眠っている間に弟が具合を悪くして病院に行ったのかもしれないと納得した。
私は弟の無事を祈りつつ弟の帰りを待つことにした。しかし、弟は帰って来なかった。

 一人になった双子の片割れは、「生きる為に出来ること」を探した。
 まず私は日本語を覚える為、書店に通って英和辞書を立ち読みして必死に単語を覚えた。そして覚えた拙い日本語で家の人と会話した。会話から日本語の話し方を覚えた。
オウム返しの様な会話にならない状態から、1ヶ月で小さな子供の会話レベルに迄に上達した。
 次に、本当の父親と母親の居所を訪ね、
自分と弟が何故ここにいるのかを聞いた。
家の人は面倒くさそうに「お前らは捨てられたんだよ」と言った。その言葉は理解できたが、
何故捨てられたのか理解できなかった。カナダに帰りたい。弟と一緒に…。
心のどこかで、カナダには帰れないことに気づいていた。だから私は祖母が最後の夜に言った様に
「生きる為にどうしていこうか」考えることにした。


学校

 10歳の私は「日本で生きていく為に、学校に行って日本語を勉強したい」と家の人にお願いをした。
教育を受けないと仕事がもらえないと祖母が言っていたのを思い出したからだ。
養父母は意外にもあっさりと小学校に転入する手続きを取ってくれた。言葉が通じるようになるなら養父母にもメリットはあるからだろう。そして私は日本の小学校に通うことになった。

日本の学校に通うのに英語の名前では困る。ここから私は10年名乗ったTiaraを捨てて、佐藤真央(さとうまお)という名前で生きていくことになる。佐藤というのは養父母の苗字だった。
 そんな中でも、未だに帰ってこないままの弟のことがずっと気がかりだった。
日本語が少しだけ話せるようになった私は、養父母に弟の居場所を思い切って聞いたが教えてもらえなかった。私は弟の行方が分からないまま1年程大阪で過ごすことになる。
 
 

一年の間に変わったことがあった。
養父母に何故か家に入れてもらえなくなり、雨風を凌ぐため敷地内の小さな犬小屋で過ごす様になったことと、養父母の稼業を手伝い、そのバイト代として残飯をご飯としてもらう様になったことだ。
 俗に言うネグレクトと言うものだったが、居場所のない私には縋り付くしかなかった。
育ち盛りの私には、養父母から与えられるものでは足りず、不運なことに通っていた学校では給食が無くお弁当持参システムだった。
持って行くお弁当もない私は、いつも飢えていた。
 飢えを凌ぐために、食べられる雑草を調べて食べたり、飲食店の残飯をもらったりした。中でも近所のパン屋で分けてもらえる“パンの耳”が当時の私にとってご馳走だった。近所のホームレスの人にパンの耳をあげる代わりに、そのパンの耳に砂糖をまぶして少量の油で揚げる揚げパンを作ってもらって一緒に食べた。
それと近所に、両生類の内臓をホルマリン漬けにする趣味のちょっと変わった人が居て、その人にカエルの内臓を提供する代わりにお小遣いをもらったりした。(身は美味しく食べました。)
 こんな辛い時期を乗り越えられたのも、祖母の「生きろ」という言葉と「弟に会いたい」という強い気持ちがあったからだった。
 
 年端も行かない子供がこんな生活をしていると流石に児童相談所に通報されることも何度もあった。
相談所の面談がある時は、私の犬小屋生活は隠され、風呂場で綺麗に洗われ相談所の人に会うことになる。

「何不自由なく幸せです。」「何かの間違いではないでしょうか?」と養父母にごまかされて結局助けは来なかった。やはり、祖母は正しかった。
 何度も繰り返される助けの来ない状況で、「寧ろ、この生活が“普通”なのでは?」と感じるようになった。完全に感覚が麻痺していた。

小学校の友人はお弁当を持って来られない私に、自分のお弁当からおかずを分けてくれた。
犬小屋生活をもっと住みやすい様に充実させよう!と思い立ち、マジックペンで黒く塗ったペットポトルを昼間の日当たりの良い所に置いておき、簡易湯たんぽを作った。寝る時に抱えると暖かかった。
河原で木材を集めて犬小屋を二階建てにした。
高床式は雨に強い。(笑)
これでグッと住みやすくなって工夫の大事さを知った。

アルバイトは小学生ではできないが、お手伝いなら可能なのでは?と考えて、銭湯の掃除をする代わりに入浴をさせてもらったり、物々交換をしたりして『わらしべ長者』の様な事をしたり…と、割と逞しく生きていたと思う。
 逞しいと言えば、こんなことがあった。

夏休みに静岡県のキャンプに行くからと車に乗せられて遠出をしたことがある。養父母には実の息子が一人いるが、その息子を含め四人で出かけた。
私を除く家族がひとしきりキャンプを楽しんだ後、私をキャンプ場に残し三人は帰ってしまった。置き去りにされたことに気づいた私は悲しむでもなく、キャンプ場で捨てられていた銛で魚を突き、さばいて干物にした。それを家族連れで来ていたキャンプ場の利用者に配り、物々交換で食材を調達した。子供連れの家族は食材が余る。自分の子供と同じ位の子供に対して優しいと見越して積極的にアタックした。中々の策士である。
十分に一人でキャンプを満喫した私は、「学校も始まるし、そろそろ帰ろう」と思い、数日分の食料を準備して徒歩とヒッチハイクで静岡から大阪まで帰った。そしてそれを夏休みの自由研究にした。保存食として用意していた干物は余ったので、養父母へのお土産にした。
今思うと中々の事件だった。でも、私にとっては思い出に残る楽しい夏休みだった。
…逞しい(笑)

 当時は「これが普通」と思っていたので、犯罪に手を染めることも無く、グレることも無く逞しく成長し、この生活にも何処か満足してしまっていた。
 


醤油ラーメンの人

しかしある時、「醤油ラーメンの人」に出会う。
いつもの様にお腹がすいた私は、食べられる雑草を探していた。
河原の近くで夢中で雑草を探していて前を見ていなかった私は、自分よりも少し年上(と思しき)の男の子にぶつかった。
その男の子は私の身なりを見ると何かを察して、「来いよ」と言った。
 少し怖かったが言われた通りついて行くと、近所のスーパーに着いた。
私が訝しく思っていると、「ちょっと待ってろよ」と言って男の子はスーパーに入っていった。
しばらくして戻ってきた男の子の手にはレジ袋がぶら下がっていて、その袋から醤油ラーメンをくれた。
それから男の子と一緒に河原に戻って、火を起こして川の水を沸騰させてラーメンを食べた。
この醤油ラーメンの味が今でも忘れられない。世界で一番おいしい醤油ラーメン。
涙が出る程おいしかった。
でも何でこの男の子は、初めてあった見ず知らずの私に親切にしてくれたのだろう。
不思議だった。
男の子は言った。
「誰も助けてくれないよな。だったら自分で何とかするしかないんだよな。」
私は祖母を思い出した。
この男の子との出会いが、私の人生を変えた。
「今の生活に満足するんじゃなくて、自分の居場所は自分で作らないと。死ぬぞ。」
男の子は続けて言った。この一言で私の中に封印していた感情が溢れて麻痺していた感覚が蘇った。
「現状で満足していてはいけない。何とかしなければ。」そんな気持ちになった。
 次の日私は荷物をまとめて、犬小屋を出ていった。
そこから私は二年間施設で暮らすことになる。

「自分の人生を変えた人は?」と聞かれたら、私は間違いなくこの「醤油ラーメンの人」と答える。


実の両親

 施設での話はあまり思い出したくないので割愛するが、施設に両親と名乗る人たちが迎えに来た。3年ぶりの父親の顔は正直あまり覚えていなかったが徐々に思い出してきた。
顔すら知らなかった産みの母親は自分に似ていて、何だか無性に腹が立った。
「弟は何処にいるの。」私がそう聞くと二人は顔を強張らせた。あまり触れられたくなかった場所に触れたのだろう。
父親は私の質問を無視して「日本語上手になったね。」と言った。
私は両親に引き取られ施設を後にした。
 実の両親と言っても、幼少期は祖母と過ごしていたし、養父母に預けられていたということもあって、ほとんど面識がないといっても過言ではない。顔が似ていているだけのただの他人だった。父親は英語でも話をしてくれるということもあってなんだかんだ仲良くできていた。しかし、母親とはほとんど会話もなく、コミュニケーションがうまく取れなかった。
そりゃそうだ。今更何を話せって?

 そして、長野に来て一年が経ったある日。
父親が突然、行方不明になった。

父親にメールを送っても返っては来なかった。母親は毎晩泣き叫び、私に当たり散らした。
私が何をしたって言うんだ。
ますます広がる母親との溝、大阪に置いて行った時の様に再び消えた父親。

 そして数日後、警察から父親が亡くなったと連絡が来た。自殺だった。

警察の話では、山奥に父親の車が置いてあり、車内に七輪と父親の遺体があったそうだ。
この時の私は、父親が亡くなったという悲しみよりも、自分を理解してくれる存在が消えてしまったという危機感に襲われていた。

こうして私はコミュニケーションが上手くとれない母親と暮らすことになってしまった。


再会

 長野でインターナショナルスクールに入ることになった。
インターナショナルスクールは、ハーフの子がほとんどで自分にとって過ごしやすい環境だった。
友人も何人か出来て、実の母親との距離はぽっかりと空いていたが困ってはいなかった。

ある日、担任の先生がホームルームで転校生が来ると言った。
先生に「入って」と言われ入ってきたのは、紛れもなく行方知れずの私の弟だった。
私と同じ顔をしていた転校生を見てクラスがざわついた。
私は思わず椅子から立ち上がってしまった。弟はにっこりと微笑みクラスメイトに向かって会釈をしたが、特に私に対してリアクションをするでもなくスッと席に着いた。
 休み時間になった途端にクラスメイトが弟の周りに群がった。
私はそこをかき分けて弟を廊下に呼び出した。
「レント、来て。」
弟は静かに席を立ってついて来た。
「久しぶり。元気だった?」言いたいことは沢山あった筈なのに、私の口からはそんな言葉しか出てこなかった。
「…なんだよ、それ。あと、レントじゃなくて、俺、タケルだから。」と弟はぶっきらぼうに答えた。
 あんなに会いたかった私の双子の弟。目の前に居る。
再会した弟は、私が知っていたころの“泣き虫のレント”ではなくなって、最早、他のクラスメイトと同じように成長した中学生男子だった。
何年かぶりの再会は感動的なものではなく、鳴り響いたチャイムの音であっけなく終わってしまった。
その時、離れていた間の弟の様子は聞くことが出来なかったけれど、それなりに何らかの苦労があったのだと感じた。でもこうして会えたことが何よりも嬉しかった。

 後々弟に聞いた話では、大阪の養父母が日本語のわからない双子を二人も面倒が見られないという理由で、施設に入れられたという。



 
家族

弟と再会して一年後の冬、私は高校受験の勉強をしていた。その頃頻繁に連絡を取っていた祖母との連絡が突然取れなくなった。
心がざわついた。
私は弟と相談して、祖母の近所の人に連絡をすることにした。
カナダを発つ時に祖母に渡された荷物の中に、祖母の連絡先と近所の人の連絡先などもしもの連絡先が書かれたメモが入っていたのを思い出したのだ。
 手紙だと届くのに時間もかかるし遅いから、国際電話をかけることにした。
無事に電話が繋がったのは良いが、「おばあちゃん、数日前に亡くなったのよ。」という近所の人の声に思わず声を失った。
 だって、つい最近連絡を取り合っていたんだよ…。そんな…。
信じられないという気持ちと、考えたくない予想が的中してしまった悲しみに頭の中がグチャグチャになった。父親が亡くなった時とはまた違った感覚だった。

 祖母との最後の電話は、私の母親に対する愚痴を吐き出したもの。(何でこんな話が最後になっちゃうんだと悔いたこともある。)
私の存在を受け入れようとせず、娘とも認めず、自己の欲求のみを通そうとする母親にイラついていた私に、祖母は言った。
「自分で稼げるようになるまでは耐えなさい。母親のそばを自力で離れられる様になるまでは耐えなさい。耐えきれたら、また会いにおいで。生きなさい。」
それが最後の祖母との会話だった。祖母はしきりに「生きろ」と言った。
何故祖母がこんなにも「生きろ」と言ったのか、その意味を今でもまだ理解しきれてはいないけれど、生きて欲しいと願われていることに幸せを感じた。祖母の遺した言葉の一つ一つから、「愛されている」と感じられた。
辛くて挫けそうな時、祖母の言葉に何度も救われ、生かされた。

 この先も、大切な人を失うかもしれない。
そんな時に自分が何のために生きているのか、その度に迷うかもしれない。
どんなに辛いことがあっても、過去の辛い時期を乗り越えた“逞しい私”を思い出して前に進むこと、それが祖母の言った「生きる」ということなのかもしれない。



東京

 2020年。そして今私は、東京に居る。
実は4年前に双子の弟も病気で他界してしまったが、私はなんとか生きています。
人が死ぬということに慣れるということはなく、その度に落ち込んでしまう。悔いてしまう。
でも、そういう時こそ、やっぱり祖母の言葉を思い出す。
 抱えきれず私も死んでしまおうか。死んでしまったら楽になるんじゃないか。
と真剣に思ってしまう時もあった。

 でも、死んでしまった人の分も生きようと
祖母の呪文のように繰り返された言葉を思い出し、
前に一歩踏み出せた。
 そして、幼少期の過酷な(笑)生活を思い出す度に、
「あんな生活より、今はいい生活をしている」
と感じてしまう私が居る。
経験は糧になる。無駄なことなんて一つもない。

 大学にも無事に通って、二年次にアメリカに留学にも行けた。私は、自分の生い立ちから世界と関わり、自分以外の事情などで困ってしまってどうしようもない人の支えになれる福祉事業に興味を持った。ボランティア活動やチャリティー活動を重ね、音楽活動もしてきた。

 しかし学費などを稼ぐ為に昼間は土方、事務、清掃員。夜はカラオケBarで働き、
 4年次の大事な時期に心臓が悲鳴を上げ倒れてしまいました。

が、不屈の精神で復活!手術も成功!

…ただ、卒論のデータはまさかのその大事な時期にパソコンの突然の故障で吹っ飛び、
入院等の事情で出席日数が足りず単位を落とし留年。不足単位を補うべくもう1年延長戦をして、
5年間も大学に通えました。(笑)

そして晴れて卒業!という時に世界的大事件。

新型コロナウイルス拡大により、
大学の卒業式は中止!ワォ。

カラオケBARは休業中なので存続が危うい為
クラウドファンディングをしようと
店長(醤油ラーメンの人に次ぐ私にとって偉大な人)
と一緒に大奮闘中!
(店長との話はまた違う記事にしようと思います!読んでくれたら嬉しいです)

 手に職を、ということで今は日用品販売店で臨時でアルバイトしております!

 コロナウイルスに色々邪魔をされていますが、
それでも、私は今幸せに生きています。

 
 幸せなんて人それぞれだけど、
「立ち止まらず前進したい!」という気持ちにさせてくれる家族のように大切な人にも出会ったので、
尚更死ぬわけにはいきません。

 大切な人生の価値観を教えてくれた祖母、
醤油ラーメンの人。

今私を元気づけてくれている全ての人に
感謝しています。
早くコロナが終息しますように。
“Love and peace, be alive to live. ”

生きていきましょう。

※本作品に登場する人物名はすべてフィクションです。

#キナリ杯  
#世界一おいしい醤油ラーメンー祖母と私ー
#唐木和花


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