
ESSAYⅡ
あまりにも寒くて投稿の間が開いてしまいました。毎週投稿の宣言が果たせてなくて反省。前回に続き、エッセイをお届けしますね。暖かくしてお読みいただければ♪
再読ライブラリー
五年前の暮れ、私は人生で七度目の引っ越しをして、坂の多い今の我家に移り住んだ。やむを得ない慌ただしい転居であった。
それから日々は飛ぶように過ぎた。慣れない新しい仕事に戸惑いながらも取り組んで最初の半年が終わる頃、部屋の中の段ボールの山も次第に低くなり、ようやく毎日の歯車が当たり前に回り始めた。
思いもかけずに訪れた懐かしい楽しみ、それは『再読』である。実は、約四百冊の古い愛読書を戦場のような引っ越しカオスの中から何とか救出し、新居に運び込むことが出来ていた。重いので一番下になっていた段ボール。やっと開けて取り出せた本を、ささやかな本棚に並べる。
手狭な部屋の一角に、今風に言えば「地味にウレシイ」空間が生まれた。そこだけ明るく暖かい灯がともったようだった。
ところで、本の読み方は人それぞれだと思う。私は子供の頃から、好きになった本は何度でも何十回でも読むという『再読タイプ』の本の虫だった。
そう言えば学生時代には「また、これ?」「なぜ?」と同じ本を何度も読む私の姿を奇異に捉える友人達もいた。『再読』でも、どちらかと言えば『耽読』寄りであったし、当時の私の読書姿はオタクなヤバイ奴に見えたのかもしれない。
そして……母の介護、子育て、トラブル続きの商売と、落ち着いて好きな本を何度も読むような自由な時間は日々の暮らしから失われ、愛読書達もホコリに埋もれてしまっていた。
今の本棚には、哲学書、歴史書、ビジネス書等の堅苦しい本や、実用書のような役に立つ本は殆ど見当たらない。学業や仕事のためにも、そういった本を数多く読んだが、愛読書と呼べるものにはならなかった。
何しろ好きな『再読』対象本ばかり収まっているので、大変偏っている。文学書といっても鴎外、鏡花、プーシキン等……。
特に多くを占めるのは、欧米の推理小説や冒険小説。ミステリーの方は、ご存じのアガサ・クリスティやディクスン・カー、もちろんコナン・ドイル、クロフツやドロシー・セイヤーズも揃っている。十九世紀から二十世紀の作家が多い。比較的新しいミステリーとしては、ローレンス・ブロックや女性探偵が活躍するスー・グラフトンもある。最近は、喜多喜久や若竹七海も書架に加わった。
冒険小説の方はと言えば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』やスウィフトの『ガリヴァー旅行記』など。ロビンソン・クルーソーは、小学生の頃に読んで以来、すっかりはまってしまった。入口は児童書だったが、今は岩波版。私の人生のバイブル的愛読書と言える。
もう何十回、再読しただろうか。南海の孤島に漂着した主人公が、次々と降り掛かる困難に一喜一憂して立ち向かう内に、これまでの生き方を見直し、成長していくという思索的な冒険物語だ。でも私的にはサバイバルのハウツー本的な読み物として子供の頃からも楽しんでいた。
ところで、よく映画に関して言われるが、昔見たものを何年も後に再鑑賞すると、人は全く異なる感想を抱くことがある。歳月がモノの見方等を変えた訳だが、何十年ぶりの『再読』でも同様の経験をした。一例を挙げると先述のクロフツによる『サウサンプトンの殺人』 (一九三四年)がある。以前読んだ時は、クロフツならではのケレン味の無い作風の為、いささか単調な面白味のない話と思っていた。しかし改めて再読すると、当時の深刻な世界不況下の社会背景や、登場人物それぞれの立場での悩みや苦しみ等が実に鮮やかに描かれていて胸に迫るものがあった。
セメント製法をめぐる悲劇なのだが、まるで半沢直樹ばりのドロドロの企業間闘争と人間模様が展開する……。
このように、私にとって久し振りの『再読』は、時の移ろいを感傷的に懐かしむというより、異なる読み方をするようになった自分への《気付き》が含まれることが少なくない。
古い愛読書との再会で開いた愉しい『再読』生活の扉。暮らしに追われているので時間が有り余っている身分ではないが、布製のブックカバーをつけて持ち出し、通勤途上や休息時間にも再読を楽しんでいる。
きっかけは、突然の性急な引っ越しであった。どちらかと言えば不運をかこつ状況であった当時の生活を『再読』が救ってくれた。なんなら幸運とまで呼びたくなる程に。愛読書達に心から感謝し、これからも大切にしていこうと誓う私である。
(了)