芸の道を極める者 【感想】映画『カストラート』

 2月24日、DVDで『カストラート』という映画を観た。18世紀のヨーロッパではまだ女性は教会で歌うことが許されなかったので、歌手として有望な男児が少年期の美声を残す為に去勢と厳しい歌唱訓練を施されて成長し、成人男性の肺活量と伸びやかな高音を併せ持ったと伝えられる「カストラート」*。その1人として名声を誇ったファリネッリの半生をフィクションを交えて描いた映画だ。同時に、誰よりも彼の才能に心酔し一心同体であろうとした作曲家である兄のリカルド・ブロスキの物語でもあった。

 カストラートとして栄華を極めた者の陰には、手術に失敗したり訓練に挫折したりして音楽の犠牲となった多くの者たちがいたそうだ。成功したとされる者も、その声を得る為の代償を払った。伸びやかな高音と引き替えに、自らの子孫を残すことが出来なくなったのだ。生涯決して得ることの出来ぬものへの気持ちを抱えて生きることを想像し、私は気持ちの置き場が無くなり苦しかった。彼らは、その気持ちを音楽表現の技術の鍛錬に捧げたのであろうか。悲しみと、絶望と、それらを耐えながら生きる意味を探す歌声。そんな彼らの生の歌声を聴いて失神する聴衆もいたと伝わる。私も聴いてみたいと思うと同時に、そのような人間の気持ちが非人道的な歌手養成の方法へと繋がったとも言えるのだろう。

 カルロ(ファリネッリの本名)が兄が作った楽曲のみを歌う傀儡から、己の感性で惹かれたヘンデルの楽曲を人間性の相反や数々の諍いの経緯をさて置き歌いたいと願い、ものにして羽ばたき自由になったことが、私の心に響いた。技術はとても大事で、その鍛錬こそ生きる意味。そのようにして人生を捧げた弛まぬ鍛練により練り上げられた技術は、技でありながら同時に彼らの魂でもあったのではないだろうか。技巧をひけらかさずとも、その鍛え上げられた心身が歌い上げた自由への切なる愛が多くの人々に届いた。非人間的な音を操るカストラートは技巧を誇るだけで芸術性に欠けるとして彼を憎んでいたヘンデルにも、彼を自分の音楽に縛り付け囲っておきたかったリカルドにも、彼の容姿や特殊性に惹かれて嬌声をあげていた女性たちにも、貴族オペラか王室オペラかという垣根に縛られいがみ合って来た男性たちにも…。超絶技巧を持ちながら、それを己の技を誇る為でも人気取りの為でもなく、曲と自らの内面とを呼応させ魂を込めて聴く人に届ける為に用いたことで音楽の神髄に到達した、崇高で澄み渡る表現。作中ヘンデルが言ったように、苦悩と鍛練の果てに紡ぎ出されたカルロの歌唱を聴き、熱を失った己の求道に私も再び出会った気がした。

 もう籠の鍵が開いているのに、遅れた時間を気にして一歩踏み出すことが出来ない。それでも、今も命の残りは減って行っている。今生では二度と得られぬ心から欲していたものへの気持ちは、技術の鍛錬に注ぎ込むべきなのであろう。そうすれば、それこそが生きる意味となる。その積み重ねの先に何があるだろう。私はもう一度それを追い求めよう。

注釈:

*ファリネッリが活躍したのは18世紀のことでしたが、カストラートが生み出され始めたのは16世紀頃のようです。記録に残る限り最後のカストラートであったアレッサンドロ・モレスキさんは1922年に他界されたそうです。本を読んでもっと詳しいことを知りたいなと思っています。

〈追記 2020年1月24日〉
 録音や録画の無かった時代、舞台芸術は、その場限りの芸術でした。その時その場に居合わせた者だけが味わうことができ、演者と観衆や聴衆の中にのみ残って行く芸術。その観念は、録音録画技術の発達した今でさえ、残っています。どんなに美しい映像も、精細な音響も、眼前で生身の演者によって演じられる作品のすべてを表すことは叶いません。
 しかし、録音録画などの記録技術の発達は、私たちに、自分の生まれる前の舞台芸術や様々な人々や自然の営みの一端に触れさせてくれる貴重なものです。そして、このような技術革新から、新たな芸術表現の方法が編み出されています。
 こうした録音技術の発達は僅かに間に合わず、カストラートの最盛期の歌唱をこの世に残る音として記録することは出来なかったそうです。しかし、最盛期を過ぎたとはいえ、芸術に文字通り命を捧げたカストラートの一人であるモレスキさんの晩年の歌唱が録音されたレコードが保存されており、この音源を元にしたLPレコードが2019年2月に日本でも発売されました。イタリアの古典的なオペラ歌唱がどのようなものであったかを今に語り継ぐ貴重なアルバムなのでしょう。
 カストラートを生んだ歴史は繰り返してはならないものだと思いますが、彼らの命を捧げ磨き抜いた歌声がこの世に残っている...それを私は、聴きたいと思ってしまいます。その危うさを認識しながら、いつか聴いてみるのかもしれません。考えれば、私は自分の祖先に思いを馳せるとき、生まれた時代の中で、みなそれぞれに何か大切なものを奪われて生き抜いたのだろうと思い、胸が苦しくなります。私も、そんな一人になりつつあります。もしかしたら、もう子供を産めないかもしれません。ずっと子供を育てたかったけれど、努力が足りませんでした。この世に何を残せるでしょう。たぶん私の家族も、付き合って来た方々も、私の残した何かなのかもしれません。自分の生まれて来た意味を考えると、崇高な目的など無いのかもしれませんが、これからの人生の一刻一刻を、丁寧に生き、技術を磨き、仕事を通して世の中のお役に立てるように働いて行きたいと思うのです。そうして生き抜いた最後にこそ、私の生きた何らかの意味が見出だせるのかもしれません。もしくは、私の旅立った後の、遠い遠い未来のことだとしても...。

LPレコード: "The Last Castorato"/Alessandro Moreschi

追記はここまで

付録:史実と脚色について映画鑑賞初心者の私が最近考えていること

 史実とは異なる箇所も多いのでしょうけれど、カストラートという存在と彼を取り巻く人々の気持ちを作者たちが想像し創り出したこの映画は、私にかつて忘れた大切なことを思い出させてくれました。正確な伝記でなくフィクションとして描かれたものの持つ役割はあると最近は思っています。

 1月から"Netaji Subhas Chandra Bose: the Forgotten Hero"、 ”LBJ”、”1987: When the Day Comes"、”Goodbye, Christopher Robin"、”The Greatest Showman"と伝記物を続けて観て来て、以前は史実重視派だったのですが少し考えが変わりました。実在したほとんどの人物は叩けば埃が出て批判の全く無い描写は出来ないかもしれないと。もちろん、描かれた人物や出来事に関わりの深い方々の心を傷つけたり大きな誤解を生み出すようなことは可能な限り無いようによくよく考えて精査せねばならないのでしょう。
 ドキュメンタリー映画を作る際は、特定の感情を引き起こすような劇的な表現は却って危険かもしれません。脚色された物語が優れた点は、観客の中にその時代や地域や職業等への親近感が湧き、そこから事実を知りたいという能動的な学習意欲を引き出すことだと思います。各々に難しさがあるのでしょう。
 創作顔負けの人生をさらにエンターテインメントとして脚色し完成させて、観る人に笑顔や涙や夢や希望を与えることも、物語だからこそ出来ることなのだろうと思います。映画を観ると、その総合芸術としての複雑さを想像し、頭が下がります。
 昨年末に東北三部作のドキュメンタリー映画を観た後に劇場支配人さんから伺ったのは、自然な反応や話を取材対象から引き出すことやその撮り方には緻密な計算と入念な準備が行われており誰もが直ぐに出来ることではなく、今も新たな技法が開発されているとのことでした。脚色しない覚悟で作ることも難しいのですね。
 後で追記できればと思っていますが、『バーフバリ』の監督を務めたS.S.ラージャマウリさんがフィクションと史実について話していらっしゃるらしい講演の記事をSNSで共有して下さった方がいらしたのですが、その時は読む時間が無く、その情報を見失ってしまいました。再度発見したらしっかりと読んでみたいなと思っています。
 私は、伝記を読むのも好きです。1人の人物について書かれた複数の伝記を、どれを読もうかと色々思案することもあります。そして、伝記を読んで自分の頭で想像してみると、映画で映像や音声がついたものから受け取る時とは別の記憶が喚起されているような気もします。このあたりについて、これからも、自分の頭と身体を使って体験しながら色々と考えを巡らせて行きたいなと思います。

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