日記 至誠の人 映画『二宮金次郎』感想
近頃の私は、地に足をつけてちゃんと生きているだろうか。どうしたら良いか。ずっと考えていた。何故このように貧乏なのか。お金のことばかりではない。近頃は心さえも貧しく成り果てているような気がしてならなかった。その心身の貧しさをひた隠しにして世の中に居るから、誰とも心を開いて付き合うことはできない。声を抑え、背中を曲げ、肩を丸め、自分を隠そうとして来たのだ。いつからか。そうすることで、ますます己が惨めになるのに、止められぬ。今の己の生き方は間違っている。何を、どうすべきなのか。考えている。意志の力を取り戻すべきではないか。
人のために己を犠牲にして生きて来た。若いうちに自分のやりたいことをやらなかった。自分は己を滅して奉公せねばならぬと思って来た。正社員として大切にされることですら、自分には贅沢であると思っていた。身を粉にして命を捧げ働かねばと、本気で思っていた。しかし、かつての私は、それが自分には当然の生き方であり、自らの希望は捨てて、女として、長子として、人の命令に黙って従い汗水垂らして働き礎になることに喜びを覚えるようにしていた。苦しかったのかもしれないが、あの頃のほうが、人として美しい心身の持ち主であったのではないか。何故今はあのように自己犠牲を貫くことが出来ぬのか。
没落する前の知り合いは皆どんどんと高みへと登り、社会人としての幸せを追求し、認められ、所帯を持ち、子を産み育て、輝いている。彼らが幸せで良かったと思う。私のような苦しみを味わって欲しいなどとは思わぬ。ただ、静かに己の心の中を覗いてみると、私も彼らの仲間になりたかったのやもしれぬ。社会人として成長し、伴侶と愛を育み、子を産み育て、あたたかい家庭を築き、世の中を責任ある大人として支えて行きたかった。そのような一個人としての義務を果たし、友人知人や血縁者たちと共に成長し切磋琢磨し支え合いたかった。こんな風に、今の私の様に、苦労した挙げ句に何も成せずに内に閉じ籠り心を隠してしまうようになる、そのような未来は想像していなかった。周りと比べているから苦しいのだろうか。
一歩ずつやり直そうと毎日言い聞かせても、周りと比べて焦って気持ちが散漫になってしまう。このような日々を繰り返してばかりいてはならぬ。しっかりしなくては。残された日々を落ち着いて誠実に着実に歩まぬ限り、目標にはたどり着けぬ。ああ、しかし、明日にはまた焦って悩んで失敗して落ち込む1日がまた終わるのだろう。そうだとしても、誠実に取り組む他無い。明日の朝、これを見直し、心に刻み付けて、少しでもきちんと落ち着いて生きられるだろうか。どんなに人と比べて焦っても、一足跳びには目標にはたどり着けぬのだぞ...
東京都写真美術館で映画『二宮金次郎』を観た。心が穏やかに正される思いがした。何に感動したのかを暫く考えている。
かつて二宮金次郎の伝記や農業全集収録の報徳司政記録などを読んでいた。数年前のことである。何故図書館でその本を選んだのか。何かを自らすすんで選ぶとき、それ自体が己の内面を表している。あの頃の私は、何故二宮金次郎の伝記を読もうとしたのだろう。図書館で借り、開いて静かに読み始め、彼の勉強への姿勢を鑑み、自分でもそのように実践しながら、幾度も読んだ。働きながら自ら勉強することを学んだ。酒匂川の道普請や、松の木を育てた日々や、農業の様子などを、想像した。生き抜くため、心を込め頭を働かせ飲食店で働いて来たが、自分の提供している食材がどのように作られているのか知らなかった。そのような基礎をきちんとしたかった。知りたいだけでなく、作りたかった。だが、農業そのものを職業にしようという思考に短絡的に行き着くのではなく、うわべだけを売るサービスをしている自分がどうにも不誠実に思われて、コミュニケーションも嘘があるような気がしていた。苦手だが沢山練習して頑張ってコミュニケーションに取り組んで来たが、売る前にものを作ることをしたかった。だが、それも「では製造業に」と職業に直結させるのでなく、もう少し考えると、根源的な仕事をせずに売ることはできぬという思考にたどり着く。そうだった。この世の中の仕組みはどうなっているのか。この商品はどのようにしてできているのか。自分でやってみねば、お客さん気分の体験ではなく、仕事として真剣にやらねば、わからないのだ。生きるためにサービス業に従事し続けた年月を経て、そのような考えに至っていたように思う。
大切なことを思い出した。まだ全てを言葉にうまく表せぬが、二宮金次郎の伝記を読もうと思った当時の自分が何を思い考えていたのか、少し思い出した。きっと、ここが私の人生の分水嶺になるのではないか。
二宮金次郎の伝記は幾つも出版されており、それぞれにおいて前書きなどに聖人君子ではなく切れば血の出る人間としての金次郎の姿を伝えようと努めたことが書かれてあった。それぞれの作者が、現存している文書や伝聞などの記録を元に研究し、当時に生きた人間としての二宮金次郎を可能な限り描き出そうとしていたのだろう。
今回初めて人間が演じた二宮金次郎の伝記を観た。血の通った演劇であった。金次郎だけでなく、一人一人の人物が、台詞の無い人々も、其処に生きていた。働くとはどういうことか。私はこの演劇を観て感じながら考えた。村の農民たちも、金次郎も、妻のなみも、金次郎への嫉妬に駆られて武士の道に迷い没落した末に農民として身体を動かし働くことにした豊田も、それぞれが私だった。何処を見ても、あの必死に働いた私がいた。私の好きだった私がいた。道に悩む今の私もいた。だが、そこにまだ見出だせない、私だけの人生というものも、思考の中に立ち現れて来た。私だけの物語。ぼろぼろで、もう美しくはなくても、私が歩んで来てこれまでに築き上げられて来た、不格好な、でも他の何処にも存在しない、私だけの人生の物語が、在る。そしてそれは、私が生きている限り、続いている。未解明の探究すべき謎が幾つも見つかった。それを手帳に書き留めた。次に焦ってしまいそうになったら、このメモを見て、自分の人生に取り組むことの大切さを思い出し、考えよう。
自分の田を耕す。このことを今日映画を観て考えた。「自分」とは、天から授かった己のことを指しているようにも感じられる。その自分が受け継いだ「田」を真面目に耕すことから、作物が実るだけでなく、それぞれの人間の個性が立ち現れて、磨かれて行くのかもしれぬ。今の身分や社会の仕組みがままならず苦しいものであっても、己の足元の土を理解し耕すことから始めることが、長い年月がかかろうとも人格を成長させて目標へたどり着く道なのだ。
私がこれまでの人生でわかったことは、自分の人生に地に足をつけて真剣に生きていないと、友情も恋愛も家族愛も育んでは行けぬということである。わかってはいても、周りと比べて惨めになったり焦ったりして己の誓いを破ったりペースを乱したりするばかりだった。そのような日々の積み重ねが、近頃の私を形成していた。だから、自分でも自分を信じられず、他者をも信じられず、心から愛することができなくなっていたのではないだろうか。今すぐに結果を求めず、基礎から着実に積み重ねて行くこと。それはまさに農業の営みだ。土を耕し、目標を立てて計画を練り、時期をみて種を撒き、季節を感じ天候を見て、身体を動かして丹念に自分の田畑の手入れをする。そうして収穫の時を迎えるのだ。思い出せ。如何様に他者の田畑と比べて焦れども、直ぐには実は成らぬことを。悪運に遭い、積み重ねて来たものが台無しになってしまっても、また一から土を耕すことから始めることを。己の今の身分に甘んじて学ぶことや成長することを諦めて鬱憤を手近な遊興で晴らすのではなく、働きながらでもやりたい学問をやることを。そうして働いて己の身を立て、苦しんでいる者がいたら、労り、彼らが自分の田畑で収穫を得られる力をつけられるよう、成長を助けることを。
田舎で介護をしながら本を読み想像してゆっくりと学んでいた時は、歩みは遅いが焦りはなかった。だが、都会では毎日が比較の連続だ。ゆっくりと土に触ることもない。こつこつと自分のやり方で学ぶのではいけないのではないか。もっと効率を上げて、近道を探さなくてはならぬのではないか。達人のブログを読み、ハウトゥー本を読み、便利グッズを買い、スピードを上げようとする。自分の失敗から見出だした自分にとっての正しい道を信じ徹せず、募る焦りに急かされて毎日を挫折と共に終える。その繰り返し。どれだけチェックボックスに完了の印をつけても、また新しいタスクが目の前にある。本当にやるべきことは、やりたかったことは、気がつけば手付かずになっている。忙しいのに、何も成していない。このまま年をとって、子どもを産めなくなってしまったら......何処かで一度停止して何が問題なのかを見極めねばならぬ。そう思いながら、幾日も過ごしていた。
今日、俳優の演じた伝記を見て、本で読んで想像していたのとは違うところがあっても、気にならなかった。寧ろ、人が演じていることで、これまで想像が及んでいなかった様々な人の営みや表情や仕草、声、涙、笑い、悲しみ、慈愛、様々な感情に、気付き、想像が拡がった。小説とはまた異なる演劇の凄さに気付いた。それだけでなく、演じた俳優たちが、この物語を単に史実をなぞるだとか、何か教育的な目的を達するためにお手本を示す教材のようにしたりせず、それぞれの人間の生き様を情熱をもって演じていたのが伝わって来た。その真摯な演技や制作の結果として観る者に各様の気付きを促す人間ドラマとして仕上がったのではないかと思う。『二宮金次郎』というと、道徳規範を提示する映画なのではと思われるかもしれぬが、観た結果としてそうは感じなかった。もしかすると、この作品は、演じた人々にも様々な気付きを促したのではないだろうか。
演じることによる気付きとはどういうことか。私の役者としての先輩に、古典演劇を学び、様々な現代劇の舞台も踏んだ方がいらっしゃる。面白いが穏やかで泰然自若とした佇まいのその方は、今後はお寺で古典演劇をすることで人々を癒す活動をして行くそうだ。役を演じることで自らの人生を追体験してゆくことにもなる、スタニスラフスキーの演技法を勉強して来たので、それを活かして人の心を癒すことに取り組んで行きたいのだと仰っていた。演技に悩んでいた時、図書館で借りた演技理論の分厚い本は、そのスタニスラフスキーのものだった。私は結局実践あるのみと当時取り組んでいた役を自分なりに考えて演じたが、確かに役を演じたことは、その過程で否応なく己の過去や内面と向き合うことになり、悩み苦しみをもたらした。その結果、私は苦しみながらも、情報と比較対象の溢れる現代の都会において、己の根幹に誠実であらねば生きて行きにくいということに、再び実感を持って気付いたのである。サービス業をしていた頃も、接客は演技なのだと教わり、演者として常に襟を正すよう努めていた。演技というと嘘で人を騙しているように思われるかもしれぬが、そうではない。当時も、そして演劇の役を演じ終えた今も、思うのは、人間として根本的に己に誠実でなければ真によき演技は出来ぬということだ。これは私の考えだが、己に対して誠実でなければ、人と接するとき、嘘が生まれる。その状態でよいサービスは出来ない。人として社会で働くにあたり誠実であることの大切さを、サービス業をしていた頃は実感を伴って理解していたのに、演じることを忘れ、周りと比較して自分の現状を惨めに感じ、自分の幸福を追求し、自分自身であろうと個性を探し求めた近頃になって、見失っていたようである。どんなに自分の個性と幸福を追求しようとも、私は社会に生きる人間であることをやめられぬ。常に誰かに支えられ、誰かを支えているのだ。だから、まず誠実であらねば生きて行きづらいのではないだろうか。
誠実とは何か。正直と誠実は少し異なると思っている。正直も嘘の無い状態だが、好き嫌いをはっきりさせ、嫌いなものを断じて行くのではないか。まず己の心に嘘をつかず正直であるとしても、突然自分の義務を放り出して自分の希望を追求できる立場には無い場合もある。そのような場合は、己の心に嘘をついて押し込めて自己犠牲的に生きるしかないのだろうか。そうではなく、正直になった上で、それでも嫌いなものごとや人も社会を構成していて互いに交わって生きているのだと考え、真心を込めて人に接する。それで応じるか応じぬかは相手次第だが、正直になった結果周りを思いやらず自己中心的になるのでなく、己の心に正直に、かつ社会の人々に対して真心をもって接することが大切なのではないだろうか。そのようにして誠実に働きながら、人と接する役を演じ、人を幸せにする。その営みの中で自分の個性が立ち現れて来たならば、そこからその芽を丹念に育てて行く。これが私の歩みたい道なのではないだろうか。
まだ考えがうまくまとまらぬが、他にも様々な思考の種が生まれた。たとえば、身分のことだ。現代では、どんなに誠実に働いても、非正規では職として認められなかったり、成長の機会や教育研修の機会や社会保障や給料が限られていたり、毎日召し使いのように扱われることで自分の価値を下げて考えるようになり、精神の健康を損なうこともあるだろう。この映画は、小作人の身分の者が本百姓を目指すことができるのか、それをすると世の秩序を揺るがすのか、では小作人の幸せは...ということを、現代の価値観ではなく当時の価値観に可能な限り立って考える機会にもなった。その他にも、もう少しきちんと文章を精査して整えたいとは思うが、日記として今日はここまでにする。明日以降も考え続けて行きたいと思う。
伝記に学びながらも、私はこの自分の物語を自分のやり方を見出だしながら紡ぎ続けて行く。誠実に。明日も、そのまた次の日も...。