私なりの後悔との付き合い方

 時折、本当に終生忘れられぬほどの後悔をする。最近になって、そんな時の共通点がわかって来た。それは、学ぶ機会を逃した時だ。成長する機会を逃した時だ。

 今日ーこれを書いた当日である5月26日、東京でY20というサミットが開かれ、私は開催日の1週間前にそれを知り、参加申込をした。大阪で開かれるG20に若手研究者たちが提言する事柄を、一般傍聴者の前で、30代以下の学生や研究者たちが議論し、まとめる。使用される言語は英語で、世界で今注目されている問題が何なのか、国際的な価値観でどう捉えられているのか、知る貴重な機会だった。これに、私は行かなかった。

 情けないことに、今、こうして書いていて、漸くその重みがわかって来た。自分の中で、咀嚼できていなかったのだ。参加したい、世界の問題を知りたい、学びたい、先の勉強に繋げたい、そんな意欲があった。だが、具体的に内容についての勉強が足りなかった。だから、直前に入って来た別の用事に気が回って、どちらを取るべきか、判断がつかなくなってしまった。準備期間である1週間の過ごし方が悪かったのだ。忙しさから決められないことが積み重なり、心理的に対応に追われながら物理的にはうまく進めず、やるべきことが終わっていない不安から夜にうまく眠れず、生活リズムを崩してしまっていた。

 私は、よくこのような判断不能に陥る。それは決まって、何かに急き立てられている時だ。期限や、親に。期限に急き立てられて判断不能に陥ると、結局どちらも取れずに終わることになる。仮に、どちらかを取っていれば、何も取らないよりはましなのかもしれない。だが、本当は、最も良い選択をしたい。だから、悩む。最も良い選択とは何か。それは、本心に従った選択だ。志に従った選択だ。そもそも期限に追われてしまうのは何故か。それは、自分の本心や志があるのに、見失っているからだ。本心や志に根差した行動を日頃の生活で取っていないから、時が経つにつれて一層本心も志もわからなくなる。そうして、期限までにきちんと生活できないまま、期限をいよいよ迎えて、何も判断できなくなる。準備不足の為せる業なのだ。

 日頃の生活で準備不足に陥るのは何故なのか。本心や志に根差した行動を取らないのは何故なのか。それは、もう人生を諦めているからだ。何処へ行っても、年齢による衰えや遅れを感じる。同年代の他の人々より遅れていると感じる。何故そこで諦めてしまうのか。かつては、周りがどうであろうと、自分のやるべきことを粛々と行い、こつこつと地道に鍛練を積み重ねて実力を身に付けようとしていたではないか。それを実際に多くの方々に誉められながら、自分も他者を尊敬し見習いながら、年齢を気にすることなく成長していたではないか。今は諦めてしまうのは何故なのか。それは、そのような言葉を浴びて来たからだ。最も近い母親からー。会う度に最後にはその言葉が出るから恐ろしくて避けている。文字で何か送られて来たものにも書かれているから、それも読むのを避けている。臆病な自分が情けないが、母親のことが何よりも恐ろしい。母親のことを恐れるのは何故なのか。それは、彼女に自分の人生の決定権を委ねてしまっているからだ。彼女は、自分の価値観が絶対だと思っていて、説明しても届かない。彼女の心を変えるのは、ただ行動と成績のみ。冷酷だが、単純ではある。母の思考体系を理解して、付き合って行くべきなのだろう。そして、母に自分の人生の決定権を委ねないこと。気にし過ぎないこと。自分自身の人生の時間を、大切に丁寧に使って行くこと。つまり、本心と志に根差した行動を取ること。取り続けること。直向きに。そうして、行動を積み重ねて、確かな実力を身につける。そうして、適時試験を受けて、成績を確認し、強みと弱みを知る。こうして行こう。

 今年のY20で議論されたことをその場で見聞きして得られたであろう貴重な学びは、永遠に私の人生から失われた。本やCDや映画で得られることより、その場その時そこに居る人々の言動からしか学べないことは、定められたその時その場に行かなければ、決して共有することの出来ぬものだ。後からビデオを観ても、決してその場に居た人よりは学べない。以前から参加を希望していた何かに参加することを断念するということは、それだけの学びを永遠に捨てることになる。余程のことがなければ、断念すべきではないと、私は今回のことで思い知った。今、とても辛い。時間は何を出しても遡ることは出来ぬから時間の喪失の後には決まって凄絶な苦痛を味わうが、その苦痛から学ぶしか、後から出来る最善のことは無いだろう。今から、ここからは、日常で圧力に潰されたり情報の洪水に流されたりしてしまわぬように、毎朝毎晩己の心身をしっかりと点検し、鍛えよう。
 そして、自分の価値観にも気付いた。私は、遊びではなく、真剣な勉強がしたい。この現代の問題を知り、地域や日本国内だけではなく、世界のことを知り、多くの人々の役に立ちたい。楽しみを味わうことは、それを希望する方々に任せる。私は、情報が流れて来ようとも、余程の案件でない限り、学ぶ機会を逃さないことにする。そうし続けて強くなって、多くの人々の生活を守るのだ。この志をもう忘れない。

 かつては家族や地域の人々の為に命を捧げた。真心を尽くした。年齢や性別を気にして諦めて自暴自棄になりかけて惨めに感じていたけれど、これからは、今からは、その奉仕を通して学んだことを活かして、学ばせて頂いたことに感謝して、より多くの人々の暮らしを支えられるよう、己を鍛えて、社会で働いて行こう。年齢や性別を理由に諦めないで、地域や国にも縛られないで、学びたいことを学びたいところで学び、強くなってどんどん世界に出て働いて行こう。祖父も祖母も先生も友人も上司も同僚も、それを喜んでくれるだろう。誰よりも自分が諦めてしまっては、いけないのだ。

これからは、たとえ何があろうとも、本心と志に根差した行動を取ろう。

「あなたの接客には真心がある」ーかつて、尊敬する方が下さった言葉だ。その他にも、辛かったけれど、お仕えを通して沢山のお褒めの言葉を頂いた。頑張ったのだ。自分で自分を褒めていい。今は。今だけは、ちゃんと自分の足跡を見つめよう。そう、今こそ、あのあしあとの詩を理解する。辛いとき、あしあとが自分のものだけだったのは、神様がおぶっていて下さったからなのだと言う。私にとっては信じがたかったけれど、ここでの神様とは勇気を指しているのだと思う。勇気とは、自分の足跡を正しく信じることで生まれるのではないか。誰にだって、間違いがあってもその足跡を自分で信じてそこから学ぶことで、その人の中に勇気が生まれる。それが、生きて行く力になるのではないか。その足跡を刻めたのも、一人で生きているのではなく、必ず沢山のどこかの誰かの力で支えられていたからなのだ。完璧ではない社会や人々によって。そう、これからは、ちゃんと恩返ししなくては。真心を忘れずに、学んで働いて行こう。多くの人々の役に立って行こう。良かった点を受け継ぎながら、己や他者の痛み苦しみから学び、より良い社会を築いて行こう。それが、私の命の残りの使い方だ。

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