男は女に育ててもらっている。常に。女は生まれながらに女だが、男は女に育ててもらって初めて男になる。それは男が社会性を強く帯びる生き物だからだ。だから生まれながらの男などまず居ない。

もちろんそのとき彼女はすでに女だった。デートに彼女は赤い自転車でかけつけた。当時あるアイドルグループの「真っ赤な自転車」という歌が流行っていた。センターで踊ってる女なんかは眼中になく、そんなに名前も知られていない端っこで踊っている女の子達が好きだった。ぼくはどことなしに寂しそうな佇まいで陰のある女が好きだ。

当時はそんな事知る由もなかったが、彼女は今で言うところの「相談女」みたいだった。「ねえ。あの子があなたに相談があるみたいなんだけど」彼女の一番仲の良さそうな女の子が声をかけてきた。放課後の教室に二人だけになって、彼女の悩みを聞いた。それを聞いたぼくは自分の体調を崩すくらいに彼女のことを心配し始めた。その頃からもう、彼女に「育てて」もらっていた。

「彼女はあなたのことが、とてもとても好きなのよ」彼女とぼくの共通の先輩が、家に電話をかけてきた。雷にうたれたみたく体中の力が抜け受話器を持ってうずくまったぼくを見て、ちょうど仕事から帰宅した親父が呆れたように大丈夫かと声をかけてきたけど返す声が出なかった。異性として人に好かれていることが発覚するとは天変地異、いやUFO遭遇レベルでショッキングな出来事だった。

相談を口実に近づいてきた彼女の赤い自転車と、彼女以上にその悩みに気を病んでしまったぼくの青い自転車は、国道11号線を抜け石手川のほとりを目指した。行くあてもなかったのだ。彼女は映画で見たある西洋人みたいにとても色が白く、ベージュのコットンのカットソーに薄いブルーのロングフレアーという出で立ちだった。松山城のほうから伸びている路面電車の通りを抜け、松山東高近くの90度のカーブまで来ると突然の雷雨がやってきた。

びしょ濡れになったぼくらはコンビニエンスストアの軒下で雨宿りをした。彼女の髪やうなじや肩に水滴がついている。振り向いた彼女のまつ毛はあの放課後の教室の相談のときみたいに濡れそぼり、重みを増し黒めき光っていた。濡れた彼女も綺麗だった。しばらくやみそうもない、まるで小さき昆虫の大群のような雨嵐の中、一台の自転車がコンビニの前を横切った。

野球部の加藤がこちらを見て「ヒューヒュー!熱いねえ!」というような視線を向けて走り去った。ぼくたちは、とても恥ずかしく気まずくなり、彼女の左耳は真夏の果実っぽく赤やんだ。雨がやむとぼくらは加藤の家とは逆方向、堀江の海岸にそれとなく向かった。

お互いの共通点としてぼくたちは街で映画を見たりお茶を飲んだりするよりは、自然の中、とりわけ水辺に居るのが好きなふうだった。その日、ことさら何をするでもなく海辺で話し込んだ。波や夕焼けを眺めながら、SASの新しいアルバムについてだとか、死んでしまった彼女の父親の話についてだとか、わたせせいぞうの漫画に出てきたビールについてだとか、うちで飼っている犬が絶望的にバカだとか、シリアスなものから下らないものまで、あらゆる情報をお互いの耳に入れあった。

その日ぼくたちは闇を待って、誰も居なくなった砂浜で寝転んで強く抱き合った。彼女が覆いかぶさってきてキスを交わした。ズボンやシャツやジャンパーのポケットの中は砂だらけになった。目を閉じながら唇を合わせると、レモンのコロンが強く香り彼女の舌の味と混ざる。歯科で歯磨き指導を受けるときの模範的なブラッシングのように、お互いの歯や歯ぐきをていねいに舐め舌を吸いあった。

彼女の息が荒くなり耳に舌を這わしてくる。耳たぶから始まって外輪のやわらかい骨をたどり、クレーターっぽいカーブを経て、内耳に向け穴に舌を差し込んでくる。ガジャガジャという唾液で濡れた舌の這う音と、彼女のフーフーという息遣いが脳のすぐそばでうごめく。「さっきさんざんあなたの耳に入れた私の情報はなんだったかしら」とあらためて精査し、もし受け入れてもらえないもがあれば断固として回収すると宣言するかのように、彼女は舌を尖らせ穴の奥を探り吸い尽くす。

海岸を後にし、ぼくらは街に帰る。さっきまで舐めていた彼女の耳は、月明かりに照らされて青白く輝く貝殻みたいに綺麗だった。

今まであんなに耳を舐めあった相手は居ないし、これからも出てこないだろう。いまだにいっぱしのセックスをするよりも、デートのたびに波音や鳥の鳴き声を聞きながら、またあるときは流星群の下でお互いの耳だけを舐め合ったあの頃のほうが贅沢なんだと思える。

卒業してから彼女は別の相談男を見つけ去っていった。とても悲しかったし悔しかったが、そのことがまた大きくぼくを育てた。今度はどんな女が、育てに来るのだろうか。それとも、もう来ないのだろうか。

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