【番外編】《塔の王子達を殺したのは誰なのか》その5
左からバッキンガム公ヘンリー・スタッフォード 、リチャード3世、ヘンリー7世、そして彼の母マーガレット・ボーフォートです。この中に犯人がいるはずです。誰だと思われますか?
今回は【番外編】最後の回になりますが、前回書いた怪しいと思われる3人の人物について、なぜ彼らが特に疑わしいと思われるのか、またそう思えるほどの確実な動機があるのかどうか、一人ずつ順番に説明させていただきます。
まずはヘンリー7世です。
彼はプランタジネット家のランカスターとヨークの統合を示すためにエドワード4世の娘エリザベスと結婚したわけですが、遡る1483年に議会においてエリザベス・ウッドヴィルの子供達は非嫡子であると決定されたのは、彼にとっては実に都合の悪いものでした。なので、1485年8月にリチャード3世から王位を奪った際、これらの証拠書類を一切破棄させ、エリザベス・ウッドヴィルの子供達を非嫡子から嫡子の地位に戻したのでした。
ですがここで新たな問題が生まれます。エリザベス・ウッドヴィルの子供達が嫡子であるなら、その息子達エドワードとリチャードは王子のままとなり、これでは彼らの方が圧倒的に王位継承者に相応しい存在になってしまうのです。
そもそもヘンリー7世は王位を継承するには遠い地位にいました。
彼の父方はヘンリー5世からの血筋ではなくて、その王妃キャサリン・オブ・ヴァロワ(と愛人の下級貴族の)からの血筋であり、一方、母マーガレット・ボーフォートは確かにエドワード3世の三男のジョン・オブ・ゴーントの子であるジョン・ボーフォート伯爵の孫ではありましたが、ジョン・ボーフォート伯爵は両親が結婚する前に生まれた私生児であり、さらにその孫娘に当たるマーガレットからの女系の血筋であることもあって、ヘンリーの王位継承順位はそもそも遠いものでした。
なので、ヘンリー7世にとって、この2人は大変邪魔な存在だったのです。
※ちなみにヘンリー7世の曽祖父ジョン・ボーフォート伯爵(母マーガレット・ボーフォートの祖父に当たる)と、リチャード3世の母セシリー・ネヴィルの母ジョウン・ボーフォートの2人は兄妹なので、ヘンリー7世とリチャード3世は親戚同士でもあります。
ヘンリー7世にとって邪魔な2人の王子であれば、ヘンリー7世をどうしても国王にしたかった彼の母マーガレット・ボーフォートにとってもそれは同じことで、そして彼女が怪しいと思われる理由の1つとしてこのような話があります。
実はヘンリー7世の時代、塔の中の2人の王子のうち弟のリチャードは塔から逃され、生き残ったのが自分だと主張したパーキン・ウォーベックとランバート・シムネルという2人の男が現れたのですが、このうちの1人が
「兄エドワードはマーガレット・ボーフォートに殺害され、私だけが生き残った」と言っていたそうなのです。
もちろん彼と彼の兄エドワードはもともと両方とも殺害されるはずで、ある男達がそれを実行するよう任命されたのですが、1人は犯罪を実行する気になれず、代わりに、彼は弟のリチャードが数年間隠れ続けることを条件に、大陸に逃げるように手配したのだとか。
「我こそははリチャード王子である」とそれぞれ宣言したこの2人は共に、ヘンリー7世から詐欺師と言われ、歴史的にはそういった位置づけで終わっている話ではありますが、パーキン・ウォーベックはエドワード4世にとても似ていたので庶子だった可能性もあるのでは、と言われたそうです。しかもこのパーキンという男は、エドワード4世の妹で王子エドワードとリチャード兄弟の叔母に当たるブルゴーニュ公爵夫人のマーガレットの大きな支援を受け、他にもドイツ神聖ローマ皇帝となったマクシミリアン1世からも絶大な評価を受け、スコットランド王ジェームズ4世など多くの有力者もパーキンをリチャード王子であると認め、そのまま王位に返り咲くかと思いきや、結局ヘンリー7世に処刑されてしまいました。
ただし、この詐欺師と言われる2人の言うことを信じてマーガレット・ボーフォートが王子殺しの真犯人と決めるのは無理がありますよね。ですが、マーガレット・ボーフォートは非常に野心家だったことは間違いないようで、2人の王子の殺害は彼女の指示だろうという噂もあったのだということです。
というのは彼女は当時王宮ではリチャード3世の王妃アンの側に仕える非常に位の高い女性で、ロンドン塔へのアクセスも不可能ではありませんでした。彼女は息子ヘンリーを国王にするために2人の王子を殺し、それを2人の王子の母である聖域に入って外部との連絡を遮断されたエリザベス・ウッドヴィルに
「貴女の王子達はリチャード3世が殺した」と教え、同盟を結ぶ事に成功したのではないか、という噂があるということです。
例え殺害していなかったとしても、2人の王子の死は、彼女にとって非常に都合の良いものでした。王子2人が死んでいなければ、どうやって
「次の国王はヘンリー、そしてその王妃には貴女の娘エリザベスを」などとエリザベス・ウッドヴィルに対して進言することが出来たというのでしょうか。例え庶子と認定された後だったとしても、リチャード3世が亡くなり、その際王子2人がまだ生きていれば、国王の地位に返り咲く可能性はあったかも知れず、なので「次期国王ヘンリー」計画を進めるために2人の王子の死亡は彼女にとっては実に都合のいい事だったのです。
マーガレットの計画---自分たちの子供2人が結婚し、一緒にヘンリー7世の王位継承の可能性を促進するべきであるというエリザベスの同意を取り付けることができたのは、つまりエリザベスが王子達は死んでしまい、我らが大義は失われたと信じたからに違いないでしょう。
なので王子達が死んだ事は彼女にとっては有り難いことであり、その事実を最大限に利用したのが彼女だと考えれば、その時点で彼女にも大変大きな動機があったということになりますよね。
そしてもう一人の真犯人はバッキンガム公ヘンリー ・スタッフォードではないかという説ですが、バッキンガム公にもまた確実に動機があったことが示唆されています。
彼の父方の祖父はバッキンガム公ハンフリー・スタフォードで、彼はグロスター公トマス・オブ・ウッドストック(エドワード3世の末子)の孫でした。次に父方の祖母アン・ネビィルはエドワード3世のひ孫であり、その上母方の曽祖父・初代サマセット伯爵もまたエドワード3世の孫です。つまり彼は祖父母4人からエドワード3世の血を引き、また父方からも母方からもエドワード3世の息子ジョン・オブ・ゴーントのランカスターの血を強く引いていたのです。そういう理由でヘンリー4世、5世、6世とも近い血筋と言うことになります。
彼はある時に気がついてしまったのではないでしょうか、薔薇戦争によって、ランカスター家やヨーク家の男子が次々と亡くなり、あとはリチャード3世が亡くなれば自分は王になれるのではないかと。
なので塔の2人の王子を殺してその罪をリチャード3世に擦り付ければ、リチャード3世の悪評が立ち、次はヘンリー7世だけになる。そうなれば自分の王位継承権はますます近いものになるのではないか、と……。
結局彼は1483年10月、ヘンリー7世がリチャード3世から王位を奪うためにイングランドに押し寄せようとした時、バッキンガム公はヘンリー側に付き、リチャード3世に捕らえられ、11月には反逆罪で処刑されてしまいます。
ところで彼が怪しいと言われている理由の、1つがこちらです。
「……そして 83 年にエドワード王が亡くなった後、彼の弟のもう一人であるグロスター公は、その王の幼い息子たちであるウェールズ王子とヨーク公をその権力で掌握しました。彼らをバッキンガム公に引き渡し、その保護下で前記王子たちは餓死した」と、当時ポルトガル国王アルフォンソの秘書だったアルバロ・ロペス・デ・シャベス(1438年から1489年)が書き残した文書が残っているのです。
また王子達失踪から数十年後の日付が記された文書が、1980年になってロンドンの大学のアーカイブ内で発見されたのだそうですが、なんとここでもまたもや彼の名前が出てきたのです。
ここには、「2人の王子の殺人はバッキンガム公爵の万力によるものである」と記されています。このことからバッキンガム公がリチャード3世の命令を待たずに自らの意思で王子たちを殺害したのではないかとも示唆されています。
というのは「国王が一時ロンドンを去った後、バッキンガム公は首都で有効な指揮を執っており、1か月後に二人が会ったとき、彼らの間に不浄な口論があったことが知られている」と作家のマイケル・ベネットが書いているのだとか。
果たしてこの口論はどのような理由での口論だったのでしょうか?
最後に、現代の私達が大きく誤解してはいけないことは、ロンドン塔はその当時、暗い牢獄ではなかったということです。牢獄ではなく、王宮でした。
例えばリチャード3世の戴冠式の後にも、2人の王子達は運動したり、弓を射たり、遊んだりする姿が目撃されており、じめじめした地下牢でぐったりしているわけではありませんでした。
王宮の一部に王子達は保護され(それは反体制の母方のウッドヴィル家から離すという目的で)、王宮では普通の生活が繰り広げられていました。議会が開催され、食料や物品の配達も行われ、人々がにぎやかに往来する賑やかな場所でした。
この王子達の寝室に侵入することは牢獄の南京錠を開けて忍び込む、というようなものではなく、身分の高い者であれば問題なく行ける部屋だったようです。
なので、もし一般的に言われている1483年の秋に王子達が失踪したというのが本当であるならば、王宮で高位の女性という地位にいたマーガレット・ボーフォートもバッキンガム公ヘンリー ・スタッフォードも殺害に関与することは可能だったのです。
そして、もし仮に1485年まで2人の王子達がどこかで生きていたとすればヘンリー7世はどの道、彼らをどうやっても殺害した事でしょう。ヘンリー7世が安泰に王位の座に居続けるためにはそれ以外の方法はなかったですから。
例え王子2人が生きていても庶子と確定された2人をライバルと恐れる必要のなかったリチャード3世と、この2人の身分を庶子から嫡子へと書類を改ざんさせたヘンリー7世では、殺害したいという動機の大きさが随分と違いませんか?
そしてヘンリー7世にしても、1483年の10月の時点で自分の息のかかった者に殺害を依頼することは勿論可能で、ヘンリーの国王になるという大義を推進するために彼らの殺害を引き受けたのがマーガレット・ボーフォートやバッキンガム公ヘンリー ・スタッフォードだったという可能性ももちろん捨てきれませんが、ここで1つ不思議な事があるのです。
ヘンリーが王位に就いた際、リチャードの悪行の数々を議会に提出した際に、何故か王子2人を殺害した件については何故か全く触れていないのだそうです。
これこそ一番に訴えれば皆が納得するようなリチャードの残虐性を示す話となったでしょうに、なぜヘンリーがこの事件に触れなかったのかは大変奇妙な事柄で、それで1つにはその時にはまだ王子達は行方不明なだけでどこかにいた可能性もあるのでは、と思われる所以です。
塔の中の王子達エドワードとリチャードの姿が見えなくなったのは定説では1483年頃と言われていますが、これも今となっては当時の資料から推測する他なく……しかも都合の悪いものはチューダー朝時代に改ざんされた可能性が非常に大きいので、真実は闇の中というより他はありません。
最後になりますが、エドワード4世とリチャード3世の息子達は3人共亡くなってしまいましたが、2人の兄弟だったクラレンス公ジョージの息子と娘がどうなったかご存知ですか。
叔父であるリチャード3世に一度は後継者と指名されたプランタジネット家の男系男子の最後の生き残りであったウォリック伯エドワードは、ヘンリー7世によって徹底的にマークされ、そして軟禁されました。その後1499年に、ヘンリー7世に反旗を翻した前述のパーキン・ウォーベック(王子リャードと騙っていた)と共に、脱獄を企てて失敗し、2人は反逆罪として絞首刑にて処刑されてしまいます。
そして彼の姉のマーガレット・ポールはヘンリー8世と王妃キャサリンの間に生まれたメアリー(後のメアリー1世)の養育係という地位にまで登り詰めたのもつかの間、ヘンリー8世によって1539年には彼女の長男のヘンリー・ポールが、1541年には彼女自身が反逆罪の罪で処刑されました。
彼女の死をもって、男系のプランタジネット家は断絶ということになり、チューダー家の栄誉は安泰となるわけですが、ヘンリー7世のみならず、ヘンリー8世もプランタジネット家の男系子孫には通常以上に目を光らせて監視していたことを考えると、彼らの治世ではどの道塔の中の2人の王子が生き残る可能性は全くなかったことでしょう。
そして、もう一人リチャード3世の庶子と言われていたグロスター公ジョンについてですが、1499年ヘンリー7世によって処刑されたと言う証言もあるそうですが、真実は全く闇の中です。
もともとスコットランド人の友人が私に言った
「リチャード3世は甥の王子達を殺してなんかいないわ」という言葉から始まった、今回の考察は非常に長いものになってしまいましたが、調べているうちにどうしても書かずにはいられなくなり、自分の中でも紆余曲折しながら、結果的に私自身も彼女の言葉を信じた形で終わりました。
今から500年以上も昔の、しかも全ての経過が文書で残っていない事柄に対して色々な人が自分の見方でそれぞれ考察しているわけですが、結局は
「真実は闇の中」であり、それぞれが自分が真実と感じるものを信じるしかないように思います。
これを最後まで読んでくださった方が、リチャード3世に以前よりは少しでも好意を感じるようになっていただければ、大変嬉しいのですが、私自身、この私の見解が正解だとは思ってはいません。
ただ真実がこうであったなら良いのにな、とは思っているのでした。
長い間、私の世迷い言にお付き合いいただきまして、感謝致します。
次回から、ついに【第3章】となります!
久しぶりのベアトリスとアリシアとセシリア、そしてついにマリー姫も登場です!
どうかお楽しみに~!
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