上野であったこと

上野に行く。動物園の前まで行く。お金がないので入らない。入口の写真を撮る。
国立博物館の前まで行く。お金がないので入らない。入口の写真を撮る。
ようし、場所は憶えたぞ、と思う。
上野の森は、なかなかいい感じである。
折角来たのだから、西郷さん(銅像)も見て帰ろうと思い、向う。
二十年ほど前にも一度来たはず(父と、死んだ祖母と、母は来なかった)なのだが、まったく周りの景色を憶えていない。
こんな感じだったかなあ、と思う。
西郷どんも、おお、何かで見たとおりだ、と思うが、こんな感じだったかなあ、とも思う。
お上りさんらしく、撮ってみた。
デジカメのモニターで確認するが、これだ、という写りにならないので、結果何枚も撮った。
周りでも、西郷さんの銅像をデジカメで撮っている人が、何人かいる。
その様子を見ていたら、わたしに、外国人が近づいてきた。こちらを見ている。
ラテン系の、太った町田康というか、ハビエル・バルデム(映画「ノーカントリー」の殺し屋役の人)という感じの外人が、一歩一歩、半笑いで、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
何かこわい。や、やられる、と思った。

わたしは後退りした。
すると、ソニー製の黒いデジカメを、わたしの方に差し出して、さらに近づいて来た。西郷隆盛の銅像の方を振り返る。どうやらわたしに写真を撮って欲しいようだ。
こちらも半笑いになり、デジカメを受け取った。
西郷像の前に、バルデムであり、町田康、町田康であり、バルデムな、異国の人が、どこか中途半端な感じで立っている。
ファインダーを覗くが、西郷像と、バルデム町田が、上手くひとつのフレームに収まらない。
もっと右に寄れとか、後ろに下がれ、とか言いたいが、言葉が通じない。ボディランゲージで伝えるのは、何だかちょっとためらわれた。
しかし、ロシータ、これが僕がウエノに行った時の写真だよ、と言って、スペイン(仮)で彼女にこの写真を見せたら、ちょっとバルデムの体が見切れてるとか、西郷像が連れた犬が枠に入ってないとかだと、かわいそうだ。とても気の毒な気がする。
わたしは、カメラを構えたまま、前に行ったり後ろに行ったり、立て膝ついたりして、やっと、きれいに像とバルデムを一緒に収めることが出来た。
撮り終わったのが伝わったのか、像の前に立っていたバルデム町田が、また、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
ふたりで、体を寄せ合い無言でデジカメのモニターを見つめる。
バルデム町田は満足してくれたようだった。
体が離れるときに、ちょっと、肉食圏の人のワキ臭と、香水が交ざったニオイを、わたしは鼻に感じた。
またお互い半笑いになって、その後、ありがとね、みたいな空気を出して、バルデム町田は歩き出した。
わたしは西郷像を見ながら、外人にとっては、ただのぶちゃむくれの犬を連れたおっさんの像ではないだろうか、記念に撮る意味があったのだろうか、などと思って、また、バルデム町田の姿を探したが、もう辺りにはおらず、どこに行ったのかわからなくなっていた。
何十年か経って、遠く離れた異国でバルデム町田が日本を懐かしみ、そこで撮った写真達を眺めるとき、バルデム町田は忘れているだろうが、その中にわたしが撮った、西郷像と、バルデム町田の一枚があるのだ。
写真だけ残って、わたしがバルデムのカメラを持ってフレームに上手く収めようと前後いったり来たりしたことや、犯される、と一瞬思ったことや、鼻に感じたワキ臭や、ありがとね、とお互いに言葉はわからないが、通わせあった何かは、どこにも残らない。みんなみんな消えてしまう。わたしの頭にも残らない。おそらくバルデムの頭にも残らない。記録にも残らない。
メモリを消去したら、消えてしまうデジカメの写真、わたしの撮った上野での写真を、バルデムは孫のホセとかに見せるだろうか。どこかで見せてほしいような気もする。

はじめて上野に来たとき、わたしは小3だった。父と母は別居寸前で、父と祖母(父の母)とわたしの東京旅行に、母は付いて来ていない。そのとき母が何を思っていたのか、父が上野でわたしに西郷像を見せたりしながらなにを思っていたのか、祖母がわたしに対してなんと思っていたのか、すべてわからない。

見もしないアルバムに、祖母とわたしが上野動物園のゾウをバックに取った写真が残っているが、そのときのことをわたしはもう何も憶えていない。写真だけが残っている。それを撮った父が、わたしたちにどう声を掛けたり、前後左右に行ったり来たりしたのかも、わからない。

ただ少し残っているのは、上野のホテルで、しきりにぶとうパンを食うことを勧める祖母をめんどくさいな、と思いながら、キャプテン翼のアニメを見ていた時の、まだ子どもの自分の気持ちだけだったりするのだ。

キャプテン翼の主題歌は「燃えてヒーロー」だった。それは憶えている。蝶々サンバ、ジグザグサンバ、と歌っていた沖田浩之も、その後自殺してしまった。

今日上野で、そんなことがあった。

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