熊本ラーメンはペペロンチーノの後味とよく似ている
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「熊本ラーメンはペペロンチーノの後味とよく似ている」
熱い豚骨スープに浸された細麺を飲み込んだ後、口の中にペペロンチーノを食べたときと同じ後味が残っているのに気づいた。
母が送ってくれた熊本ラーメン。故郷に帰ることなく亡くなった父を連れて熊本へ墓参りに行くというので頼んだものだった。
大黒ラーメン。くりぃむシチューさんが青春時代に通った店として有名になった熊本ラーメンの老舗だ。
ぼくにとっては8歳から9歳に掛けての2年間だけ暮らした熊本市内のアパートの向かいにある想い出の店だった。公式サイトによるとオープンは昭和55年というからもしかすると大黒ラーメンがオープンする前に同じ場所でやっていた別の店の話かもしれない。朧気な記憶ながら、そこが家族で外食をした唯一の店だった。第三子となる妹が生まれた後、父は東京での勤めを辞め、故郷の熊本に帰った。今でいうUターンだ。しかしながら、当時の熊本には東京ほど仕事がなかった。兄や弟の仕事を手伝ったりもしていたけれど、思うようにいかなかったのだろう。長男のぼくが転校先の小学校に馴染むことができず登校拒否になったこともあり、父は以前勤めていた東京の会社に復職。家族を連れて神奈川に舞い戻った。今思えばたった2年の話なのだけれど、先の見えなかった当時はとてつもなく不安だった。
自分で決めた道とはいえ、父も不安だっただろう。父親になった今は当時の父の気持ちが痛いほどわかる。母がいつも「なんとかなるわよ」と励ましてくれたこと。家計をやりくりして毎日ごはんを作り続けてくれたこと。それが父にとってどれほど救いになっていただろうか、も。
そんな父の好物がペペロンチーノだと亡くなった後のことだ。一緒に暮らしていた子供の頃にはまだペペロンチーノなんて食文化は日本にはなかったし、ペペロンチーノを家庭でも食べるようになった頃には一緒に食事をする機会もなくなっていた。
「あんたがひとり立ちした後、家族で行ったジョリィパスタでよく食べたのよ」と母は教えてくれたが、保守的な父がペペロンチーノなんて西洋料理を好んでいたこと自体、ぼくにしてみれば意外だった。
その謎を解くヒントをくれたのが冒頭の「後味」だった。焦がしニンニクがたっぷり効いた大黒ラーメンを食べた後、口に残った後味が紛れもなくペペロンチーノを食べたときのものと同じだったのだ。熊本生まれの父がペペロンチーノを愛したのはおそらくそれが「汁無し熊本ラーメン」だからだったからなのではないだろうか。父はペペロンチーノを食べながらその後味でひとり帰ることの叶わなかった故郷に想いを馳せていたのかもしれない。
熊本を離れる直前の春休み、父が海釣りに連れて行ってくれた。故郷の海を長男であるぼくの目に焼きつけておきたかったのだろう。少年時代に夢中になった海釣りの愉しさをぼくにも味わせたかったのだろう。でも、父もぼくも一匹も釣れなかった。情けなかった。ひとつも良いことがなかった熊本での2年を象徴するような釣果だった。唯一の想い出は帰り際、誤って堤防から落ちたぼくを父が服のまま飛び込んで助けてくれたことだ。
父と二人きりで出掛けたのは後にも先にもそれだけだ。あのときぼくを助けてくれた父はもういない。何かあっても助けてくれる父はもういない。そう、あのとき故郷で藻掻き苦しんでいた父にも助けてくれる父親はいなかったのだ。
父が大好きだったペペロンチーノの後味を熊本ラーメンに感じながら、父も感じていたであろう孤独と不安をぼくは強く噛み締めていた。