『小説 ブルーピリオド あの日の僕ら』のウラバナシ(1)
さてさて、『ブルーピリオド』の小説版オリジナル短編集『小説 ブルーピリオド あの日の僕ら』発売から少し経ちましたけれども、すでにお手に取ってくださった方もおられるでしょうか。
小説をコミックの体裁にそろえ、アナザーストーリーを描いてファンの方を中心に読んでいただこう、というのは、講談社さん的にも新しい試みであるようで、本作品をきっかけに、読者さんの中でマンガと小説の垣根がなくなっていくといいなあと思いました。小説もおもしろいじゃん!って思ってもらえたら嬉しいなあ。
で、今回は、その『小説 ブルーピリオド あの日の僕ら』のウラバナシ第一弾ということでございまして、果たしてノベライズ作品の小説の裏側とか知りたいという需要があるのかはわかりませんけれども、こんなことあったなあ、という著者の備忘録もかねて、つらつら書いていこうかなと思います。
■ノベライズのご依頼がきたものの。
漫画『ブルーピリオド』はお好きだったりされますでしょうか?
と、昨年9月に編集者さんからご連絡いただいたのが本作を手掛けるきっかけだったんですが、当時、講談社さんの中でブルーピリオドの小説化の企画が進んでいたみたいで、以前、僕が黒沢清監督のドラマ『スパイの妻』のノベライズをしたご縁もあって、今回、ブルピ(公式の略称は「ブルピリ」らしいね)小説化やってみませんか?とお声がけいただけたわけですね。
で、これが偶然、妻に『ブルーピリオド展行こうや』って誘われていた矢先だったので、妙に運命的なものを感じて、とりあえず、元気よく「やりまぁす!」と言ってしまったんですけど。
でも、そもそも僕自身は長い間ずっと最序盤の八虎状態で、「ピカソってなにがすごいん」「現代アートって何が言いたいん」というレベルの美術オンチだったので、アートがテーマの本作をはたして小説化できるのか、という、一抹どころじゃない不安はありました。
企画を持ってきてくださった編集さんは、今回はキャラクターに焦点を当てるので、絵画技法とかアートについての知識は原作ほど必須ではないんじゃないですかね? とおっしゃってはいましたし、小説家って、自分の経験したことのないことや専門外の話も書いたりする究極の知ったか商売なわけなのですけれども、やっぱり、ある程度わかってて書くのと、何もわかってない状態で書くのとでは文章の彩度が変わっちゃう気がするんですよね。なので、これはいよいよ長年棚上げしていたアートとしっかり向き合わなければならぬ、という覚悟をする必要がありました。
一応ね、以前からアート関係詳しい人に話を聞いたりしてたんですよ。アートってなんなん、みたいな。『ブルーピリオド』とも、その過程で出会ってはいたわけです。でも、大体みんな、ブルース・リーみたいなこと言うじゃないですか。ドントシンク、フィィィ~ル的な。「アートっていうのは鑑賞者が何を感じるかか大事」とか。ブルーピリオド作中でも、そういう場面がありましたしね。橋田も言ってた。なんなら今回の小説版でも言ってる。
でも、じゃあなんで、世の中に評価される絵とされない絵があって、賞に選出される絵や売れる絵と、見向きもされない絵があるのか?って、ずっと不思議だったんですよ。特に現代アートとか、どこに作品を評価する軸があるんだろう?みたいなね。
そんな、不安だらけの出発になりましたが、その疑問を解消してくれたのは二つ。「ブルーピリオド展」と、山口先生ご本人のお言葉だったのです。
■なんとなーくアートを吞み込めた
前述のブルーピリオド展には、一応、取材と言うことで担当編集さんと行かせていただいたのですが、その5mくらい後ろを妻がこっそりついてくる、という意味不明な構図になり、なにこの状況、と思いながら見て回ってきました。展示の方は、いろいろ趣向が凝らしてあって面白かったですよ。
で、途中でね、(肝試しでおなじみ)ゴヤの『我が子を食らうサトゥルヌス』の解説があったんですよ。あんま展示の内容言うとまずいかもしれないのでさらっとだけいいますけども、絵だけの印象と、解説をしっかり読んでから観るのと、印象変わるでしょ?みたいなやつで。それが、もうほんとに印象ガラッと変わっちゃったんですよね。もののみごとに。
絵を見た時点では、昔話で山姥が人食ってるとこ、みたいな印象でしかなかったんですが、これが、我が子に殺されるという予言を受けたサトゥルヌス(サターン)が、その恐怖に駆られて我が子を食う場面を描いたもの、っていうストーリーが頭に入ってくると、絵の表情から、しっかり恐怖とか狂気とかやりきれなさみたいな感情を感じ取ることができるようになるんですよね。そういうのを感じるべく脳が動くようになるというか。
なにかというとすぐ頭の中でストーリーを作りたがる小説家の性もあるかもしれませんが、少なくとも僕は、絵のストーリーから入る、っていうのが一番わかりやすくて、すごい!面白い!ってなったんですよ。
で、美術館行くと必ずキャプションみたいなのついてるじゃないですか。ああいうのは素人さん向け説明文だと思ってたんで、心のどこかで、絵よりも先にそっち見るのが恥ずかしい、って思ってたわけです。アート有段者の方々は、そんなもん読まんでも絵を見りゃ一発で「これはすごい絵だ」ってわかるんだろう、わからん僕が美術オンチなんだろう、って思ってたんですが、『我が子を食らうサトゥルヌス』が、キャプション込みで絵を観てもいいんだ、っていう気づきになったわけです。僕みたいなんはその方が俄然理解しやすくなるんですよ。これなら、僕でもすごい自由に絵を楽しめるじゃん、と思えたのが、ブルーピリオド展での最大の収穫だったと思います。
で、このブルーピリオド展、今後大阪でも開催されるみたいなので、関西在住の方、ぜひ行ってみてください。
もう一つ、じゃあ、なんでそんな自由なアートに、評価されるものされないものがあるのか、何が素晴らしいアートで、何が素晴らしくないアートなのか、その評価を分ける評価基準というのは何ぞや? という問いが残るわけですが、その疑問については、企画の中で山口先生ご本人とお打ち合わせさせていただいた際に、(贅沢なことに)先生に直接質問させていただいたんですよね。その答えが、「アートに絶対的な評価基準はない」っていうものだったんですよね。
原作中で、世田介が「受験絵画なんて教えやがって!」と激おこするシーンもありますけど、アートを評価するという場合には、その評価する場面ごと、組織ごと、コンセプトごと、賞ごと、いろいろな評価基準がそれぞれに存在している、ということらしいわけですね。なので、賞を獲った、ものすごい高値が付いた、みたいな作品を見て「なんかぴんと来ねえな」と思っても、それはアートが理解できないんじゃなくて、その賞と鑑賞者の評価基準がそもそも違っていただけ、ということになるわけです。ってか、これも橋田が作中で言ってたじゃん。
アートに造詣の深い方はね、何を今さら、と思うかもしれませんけども、僕は、この作品に向き合うまではその程度の認識しかなかったので、長年、理解できなくて恥ずかしい、と思っていたアートに向かう扉が、すこん、と開いた、というだけでも、このお仕事受けてよかった、と思ったのですよね。そのブレイクスルーがなかったら、たぶん、『あの日の僕ら』は書けなかったんじゃないかな、と思います。ブルーピリオド自体も、僕の中で面白さがぐんと上がりましたしね。
■山口先生による本作の監修について
本来ならね、こういった「外伝もの」は原作者さまが漫画として描くことが一番正しいと思うんですよ。ファンの方に寄り添う一番の形はそれ。でも、漫画本編では描けなかったところ、つまり、絵画で言うところの、キャンバスに収まらなかった部分というのは、漫画で描くにはあまりにも手間と人手がかかるので、なかなかみなさんには届かないわけです。
その点、小説という形であれば、手を動かすのはほぼ作家一人ですから、人的・予算的コストを最大限抑えて、キャンバスの外側を描くことができるわけです。原作作中で語ることができないのなら、原作者以外の人間がお手伝いさせていただくことで、みなさんに楽しんでいただく形にする。つまり、最良の策が取れない場合の、次の手段、というのが、「公式二次創作」の役割であり、存在意義なのかな、と思います。
二次創作もね、公式が出すということになると作品の正史の一部となる可能性がありますから、今回の『あの日の僕ら』で描かれたことがすべて原作に組み込まれるのかはわからないですけれども、やっぱり僕が好き勝手書いていいというものでは当然ないわけです。なので、一話一話、原作の山口先生、およびアフタヌーンの担当編集者さんに、キャラの描き方に不満がないか、本編に影響が出るような設定を作っていないか、アートや原作に関する事実誤認はないか、といったところを逐一チェックしていただいた上で刊行したのが、本作、ということになります。
今回、山口先生にはほんとに協力的にご対応いただけましてですね。資料出していただいたり、参考書籍のご紹介いただいたりですとか。キャラの描き方についても二、三、ご助言をいただいた部分もあります。
もう、完全にイメージでしかないですけど、人気漫画家さんの作品を小説化する、なんていったら、なんかひと悶着ありそうじゃないですか。そもそも漫画家さん側が小説化に全然乗り気じゃないとか、猛烈にダメ出しされるとか、完成稿ができてから、ちがーう!こうじゃねえ!って全部ひっくり返されるとか。でも、『あの日の僕ら』の制作過程ではそんなことは全然なくて、ストーリーの大枠などは完全に任せていただきましたし、提案も概ねOKを出していただいて、かなり自由に作らせていただけたと思います。正直に言うと、ゴリゴリにダメ出ししていただけた方が、小説化する側はプレッシャー減るということもなくはないわけではありますけれどもね。オールオッケーが出ると逆に不安、みたいなね。なんか矛盾を抱えがちな乙女の恋心みたいな心境でやらせていただいた感じがあります。
■五人のキャラクター
今回、『あの日の僕ら』で取り上げたのは、主に連載序盤からの登場人物で、八虎、ユカちゃん、大葉先生、世田介、橋田という五人だったのですけれども、なんでこの五人を選んだかと言えば、僕が書きたいと思ったから、という超絶シンプルな理由で。
まあ、一話は八虎というか、八虎のパパがメインじゃん、という声もありそうですが、一応、小説を通して漫画では視点人物となることが多い八虎を客観的に描き出そう、という試みでもありまして、八虎はちゃっかり全話に登場しています。
ただ、山口先生が今後過去編を書く予定があるとか、思い入れがあって人に書いてほしくないとか、小説化NGが出るキャラもいるんじゃないかと思って、上記五人に加えて、桑名マキのお話もバックアップとして用意しておりました。結果的に今回は実現しなかったんですが、桑名マキのお話も書いてみたかったですね。
各話のウラバナシや小ネタ的なお話は、また時間を見てちょこちょこ書いていこうかなと思います。今回はこの辺で。