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エースの背中
■2019/08/06 夏の高校野球開幕
汗を滴らせながら、背番号1を背負った男は頷く。大きく一つ息を吐くと、投球に入る。エースが投じた渾身の一球。だが、剛速球にはもはや力がなくなっていた。キン、という澄んだ金属音とともに、打球が三遊間を抜けた。三塁ランナーが生還し、試合が終わる。エースは、マウンド上で力なく崩れ落ちた。
そして、そのまま立ち上がらなかった。
二十年前の夏の一日を、俺は今でも覚えている。当時、高校三年生の俺は一軍のキャッチャーとしてあいつの球を受けていた。エースのあいつは、プロ入りも既定路線の逸材だった。俺は小学校の頃からずっと、あいつの球を受けてきた。誰よりもあいつのことをわかっている。俺はそう思っていた。
高校最後の夏の甲子園。一回戦、二回戦は順調に勝ち上がった。決して強豪校ではない俺たちには、奇跡のような快進撃だ。それも、すべてはエースの力だった。あいつは毎試合三振の山を築きながら、九回を投げ切った。
三回戦は猛暑を通り越して酷暑の中で行われた。相手は優勝候補。これまでのようにはいかず、あいつの直球でさえ、時に外野まで運ばれた。一進一退。試合は延長にもつれた。
十二回、味方の攻撃は三者凡退に終わった。
緊張と疲労のあまりベンチでほんの少しうとうとしてしまった俺の頭に、あいつのグラブが降ってきた。「なに寝てんだよ」という澄んだ声が聞こえる。背番号1の背中が、再び炎天下のマウンドに向かって歩き出していた。
「なあ、おい」
「ん?」
「絶対、勝とうな」
あいつは振り返ることなく、ああ、と返事をした。だが、それが最後だった。十二回裏、百四十九球目をサヨナラのヒットにされたところであいつは倒れ、意識を失ったまま帰らぬ人となった。原因は、熱中症だった。
俺は今、冷房の効いたリビングで二十年ぶりに高校野球を観ている。自分が出た令和元年大会からずっと観ることができずにいたが、今年は二十年ぶりに母校が出場したのだ。
あいつの死をきっかけに甲子園球場は使われなくなり、今は各地のドーム球場が持ち回りで会場とされている。今年は札幌、来年は東京だ。投手の球数制限も採用され、エースでも一試合百球以上投げることができなくなった。二十年前のあの時にこのルールがあったなら。俺は、糸の切れた人形のように倒れるあいつの姿を思い出さざるを得なかった。
試合は膠着状態のまま、延長に入った。俺はソファに深く腰掛け、ほんの少し目を閉じた。甲子園の記憶が鮮やかに蘇ってくる。ブラスバンドの応援。歓声。汗と土のにおい。
「なに寝てんだよ」
不意に、頭の上に重さを感じて、俺は慌てて目を開けた。茶色いグラブの影。そして、マウンドを目指すあいつの背中。目の前には、甲子園球場の風景が広がっていた。
「なあ、おい」
「ん?」
「絶対、勝とうな」
いや、そうじゃない。俺は自分に向かって叫ぶ。延長に入った頃から、あいつの直球は明らかに球威が落ちていた。なにかがおかしい、と俺は気づいていたのだ。
「なあ、おい!」
あいつの足が、ぴたりと止まった。
「でも、絶対、無理はするなよ」
エースの背中に、俺はなんとか声をかけた。あいつは帽子をかぶり直すと、わかってる、と残し、マウンドに向かっていった。
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