ご質問にお答えします(5)「モノカキの糧とは? 正しい日本語とは?」
さてさて、モノカキTIPS、今回は質問回答編でございます。質問を貰うというのは書き手にとっては面白いものでございます。例えば、音楽のライブだとか、カウンター越しで接客するお寿司屋さんだとか、そういうお客さんの反応がダイレクトで見えるお仕事とは違うので、ああ、僕の文章を読んでこう感じたのか、とか、新たな発見があっていいもんでございますね。
ということで、今回のご質問はこちら。
いえいえ、ぽちって頂けたのならはなまる満点でございます。楽しんで頂けたらいいなあ。
今回は、質問が大きく分けて二つありますね。
・文章力を効率的に伸ばしていくために有用な「糧」とは?
・「正しい日本語」の定義とは?
という感じでしょうか。なるほど。僕の以前のモノカキTIPS第二回の記事を見て感じた疑問、というわけですね。こういうね、疑問に思ったことはどしどし聞いて頂けると嬉しいですね。
ではでは、お答えしていきましょうー
■文章力を成長させるには
文章力というものは、やっぱり書くことによって成長していくものでありまして、ある作家さんは「文章力を伸ばすために文章を書くこと」を「筋トレ」と表現されておりました。とてもわかりやすい表現だと思うんですよね。筆力を上げるいろいろな方法を、「筋トレ」と対比して考えるとわかりやすいんじゃないかなと思うんですよ。
まずは筋トレを初めよう!となった時、皆さんは何から始めるでしょうか。トレーニング方法をネットで調べたり、トレーニングウェアや器具を買ったり、ジムの契約をしたりするかもしれませんが、とにかくやらねばならんことは、「筋肉を使うこと」だと思います。スクワットでも、腕立て伏せでも、マシントレーニングでも、もしくは実際にスポーツをやるとか、駅でエスカレーターを使わずに階段を駆け上がるとか、何かしら筋肉を使わないことには筋力はアップしないわけです。モノカキにとって、それは「書くこと」だと思います。いろいろ勉強して知識を身につけても、文章を書かないことには成長しないわけですね。
僕は、以前のTIPSで「チャレンジと失敗を繰り返して長編を書き上げることができた」というようなことを書いていて、その具体的なチャレンジや失敗とは何だったのか、というのを今回ご質問頂いているんですけれども、それはもう、とても簡単なこと。「書くこと」でしたね。
当時の僕にとってのチャレンジは、「長編を書くこと」でした。失敗とは、「長編を書き上げられなかったこと」です。途中でね、どうも行き詰まってしまってそのまま未完成で終わらせてしまった、とか、書いているうちになんか違う方向に行ってしまって放棄してしまったとか、やっぱりそういう失敗があったわけです。
じゃあ、どうやったら長編を書き上げられるようになるのか、という課題を持った時に、どこからアプローチするかは人それぞれの素養や才能、性格や環境が影響するんじゃないかなと思います。例えば、「スクールに通って誰かに教えてもらう」は、ジムでトレーナーにトレーニング方法を教わるようなこと。「自分でテーマを決めて習作を書いてみる」というのは、自分の弱いところの筋力を上げるための筋トレをするようなこと。
僕の場合はあんまり創作に関する知識がなかったもので、できないことをひたすらやってるうちにできるようになった、という感じでしたね。強いて言うなら、友達に読んでもらって「次早く書け」と言ってもらった、ということくらいでしょうか。僕にとっては、書くためのモチベーションを維持することと、ひたすら実戦を繰り返すのが有効だった、ということですかね。
質問者さんにとって、今現在の「チャレンジ」がどういうところに設定されているのかがわからないので、僕の場合の具体的なやり方が参考になるかというと、そうでもないんじゃないかなと思います。僕は、実戦形式で「長編を書く」ということに挑んだ結果、必要な「モノカキ筋」が鍛えられたわけですが、人によってはもっとその前の基礎トレにあたる「読書」が必要だったりとか、あるいはアイデアの種となるものの摂取が必要だったりとか、状況によりけりじゃないかな、と思います。
今思えばですけれども、効率的に「モノカキ筋」の筋力を上げるには、ただ書いているよりは、栄養とりつつトレーニングした方がよかったかもなあと思いますね。「栄養」とは、インプット、つまりいろいろな作品に触れることだと思います。小説でも、映画でも、アニメでも、漫画でも、あらゆるものから栄養は吸収できます。栄養を吸収するぞ、という意識を持って生活していれば、生きて体験していることすべてが栄養であることに気づくでしょう。ただ、あまり栄養ばかり摂ると頭でっかちになってしまって、自分らしさや自由度を失ってしまうというデメリットもあるんじゃないかなと思います。
取り込んだ栄養は、「書く」というトレーニングを行うことで、ストーリーテリングの力だったり、文章力だったりという「モノカキ筋」に変えていきます。小説を書く上で、苦手だな、と思うところが自覚できているなら、そこを集中的に鍛えられるように、トレーナー(先生)の元で学んだり、作家が書いた創作論、トレーニング方法なんかを取り入れてみて、自分に合っているかと試行錯誤しながら書いていくといいと思います。「書く」ことをやめなければ、人それぞれスピード感は違うものの、間違いなく成長はできると思います。
ただ、筋トレもそうですが、飲んだ瞬間、放っておいても筋肉がムキムキになっていくような魔法のサプリは存在しません。いろいろな人から技を盗んでも、結局は「地道に書いて鍛える」ことは避けられないので、やはりまずは書くこと、としかいいようがないかなと。その中で、自分に足りないモノカキとしての筋肉はどこなのかを考えて、トレーニング方法を模索してみてください。
■正しい日本語とは?
もう一つの質問。「正しい日本語とは何か?」ということですね。僕が、小説家には「ある程度正しい日本語」を書く能力が必要ですよ、と書いたことを受けてのことだと思います。
質問者さんは「そんなものはない」というお考えのようで、「通じる日本語」であれば小説になるのではないか、ということでしょうかね。
ただ、僕は「正しい日本語」は明確にあって、それは「通じる日本語」に内包されるものだと思っています。そして、それは「通じる日本語」という表現がサポートする範囲の広さに比べたら、はるかに小さいものです。だからこそ難しく、簡単に小説家にはなれない理由じゃないかなと。
僕が言う「正しい日本語」とは、小説の文章の「綺麗さ」「基本への忠実っぷり」というところではなくて、日本語という言語のルールに基づいた正しさ、つまり、文法や単語の意味を正しく使った日本語の文章のことを指しています。もし、ここに言葉をもう一つ加えるのであれば、「現代の日本において」でしょうか。
おそらくですね、質問者さんが「そんなものはない」とおっしゃっているのは、言語というものは時代とともに変化していくもので、「正しい日本語」と定義できるものなんかないのではないか、という考え方からなんじゃないかなと思うんですよ。時代とともに新しく生まれた表現も取り入れていくべきだ、とか。新しい文章表現を模索するべきだ、それが作家性、オリジナリティに繋がるんだ、という。違うかな?
それは、ある面では正しいのですが、僕が言っているのはもうちょっと根っこの部分ですね。
日本語は時代によって細かなルール変更を繰り返して成立してきた言語で、もちろん今現在も進化の途中ではあるのですが、それでも、現代日本語の「正規ルール」は明確に存在しています。主語と述語の関係性、助詞や助動詞の使い方、慣用句の使い方、などなど。それらは、言語学者さんたちが研究して体系づけていて、学生の頃、国語の時間に我々はひととおり習うことになっています。でも、これが身についていない人がかなり多いんですよ。
正しい日本語のルールを押さえたうえで、文体を崩したり、口語と文語を使い分けたり、独自の言い回しを作っていったりすることは小説家のやることですが、「わかっていてあえてやる」のと、「そもそもわかっていない」のとでは、読めばはっきり違いがわかるほど、文章のレベルに差が出ます。
なので、正規ルールをびしっと守った小ぎれいな文章で小説を書かなくてもいいけれど、決してノールールではないということをまず理解する必要があります。「正しい日本語」というのは、現代という時代を生きているすべての作家、編集者さん、読者さん、の間で共通するルールに則った日本語です。小説を書くためには、文章をより多くの人に理解してもらわないと内容の良し悪し以前の問題になってしまうので、「ある程度正しい日本語」で文章を書く力は必要なわけです。
質問者さんがおっしゃる「通じる日本語」がどれくらいの範囲の文章を想定しているかはわからないのですが、「通じる日本語」という言葉はやっぱり範囲が広すぎるかな、と思うんですよ。ほとんどの日本人は「通じる日本語」を書くことができます。文法や意味がメタメタでも、それなりに通じてしまうので。
若者同士だったら、「マ?」「それな」で会話も成立して日本語として意味も通じるわけですが、そうであっても、それが小説の文章にはならない。「寝てる男の背中にナイフぶっささってるくて、佐藤マジビビリ、血とか出てんの見てオエオエ嗚咽しまくりで、ヤバみがあふれてた。ぴえん」とかいう文章でも、意味や状況は分かりますよね。でも、これが小説だったら読みづらい。文法誤り(い抜きなど)、単語の誤用(×嗚咽 △嘔吐く 〇吐き気をもよおす)がありますし。まじめにやってもこれしか書けない、っていう作家はさすがにいないですからね。もしいたら、逆に売れるかもしれないけど。怖い。
まあ、ちょっと例は極端ですけど。
つまり、「通じる」だけなら簡単なのです。テレビでインタビューをされている人の発言を文字に書き起こしたら文章としてはめちゃくちゃになることが多いですが、「言ってる意味がわからん」とはあまりなりません。外国人の方がカタコトで話す日本語も、意味はある程度通じます。でも、それがそのまま小説として読める文章にはなりませんよね。新人賞の応募原稿も、ほとんどは書いてあることの意味はわかるんだと思うんですよ。でも、日本語がおかしくてどうも読みにくいなあ、とか、やたら誤用が多いなあ、とか、読み手がいちいち頭で修正・補完しなきゃいけないストレスフルな文章では、アイデアがよくても到底上には行けないんじゃないかなあと思います。だいたい、一次二次で落選続き、という人は、基本的な「正しい日本語」を使った文章が書けていないので、作家性とかアイデアという部分で勝負する舞台にも上がれていないことが多いんじゃないかなと思います。
「通じる日本語」は、非常に相対的な概念で、主観に基づくものだと思います。ただ、「主観的」というのはモノカキとしてはあまりいい見方じゃないんですよね。なにしろ、ほんとうにいろんなレベルの読者さんがいますから、「これなら通じるだろう」という作家の考えが全然通用しないこともあります。
商業作家として文章を書いていくなら、読者側の視点に立って文章を書く必要があるのですが、さすがにあらゆる人の読解力にフィットした文章なんて書けないわけでね。だとしたら、最大多数の人がストレスなく理解できるであろう客観的な「基準」が必要になるわけです。それが、「正しい日本語」。
それをベースに持った上で、多くの小説家は文章を作っています。自分の色を出さずにベーシックな文章を書いてください、と言われたら、たぶんだいたいの作家さんはすらすら書けるんじゃないかな。
ピカソだってね、本来めちゃくちゃ写実画もうまいわけですよ。そういう、基礎がちゃんとできている人があえて基礎から離れたものを描くから、一見めちゃくちゃな絵にも芸術性が生まれるわけで。「絵がへたくそだけど、なんとなくピカソっぽい絵なら描ける人の作品」は、さすがに芸術にはなりませんし、誰も欲しいとは思わないでしょう。作家にとって、「正しい日本語」は、そういう基礎的な力ということですね。
■結論
モノカキを目指して文章力を上げるためには、とにかく「モノカキ筋」を使うこと、つまり書くこと。じゃあもっとよりよく「モノカキ筋」を鍛えるにはどうするか、と考える時には、他者の方法論とか技術論が参考になります。でも、万人にハマるものではないので、その都度、自分の現状に合わせて取捨選択や試行錯誤する必要があると思います。
僕は、とにかく書く!というパワープレイでした。
これはこれでハマるかもしれないので、試していただければ。
また、やはり「正しい日本語」は明確にあって、モノカキには「ある程度正しい日本語」を書く力が必要だと思います。「正しい日本語」とは、文法や語句の用法といった「正規ルール」に則って書かれている日本語の文章のこと。それは、読者や新人賞の選考を行う人たちにも共通のルールなので、文章を書く側はそのルールをある程度、感覚的にでもいいので、理解しておく必要があります。
「正しい日本語」で文章を書くことができるけれど、あえて崩したり、わざと難解な文章を書いたりする作家さんは大勢います。でも、それと同じようなことをやろうとしていても、やはり単純な誤用や文法間違いの多い書き手の文章は稚拙に見えますし、それは見る人が見れば一発でわかります。
多くの読者に向けて小説を書く時は、客観基準である「正しい日本語」をベースにした文章を書けるだけの文章力、日本語力がモノカキには必要なのです。自由な表現、新しい表現というのは、その基礎的な力があって初めて模索できるようなことですね。
と、こんな感じでしょうか。いかがでしょう。参考になれば幸いです。
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小説家。2012年「名も無き世界のエンドロール」で第25回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。仙台出身。ちくちくと小説を書いております。■お仕事のご依頼などこちら→ loudspirits-offer@yahoo.co.jp