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「生」の言葉

おはようございます。きょうも書いていきます。

エモいとかモヤモヤする、といった表現をこれまでそれとなく避けてきた。どうも思考停止でいて、頭を使わない感覚を得ていたからである。しかし、これだけエモいやモヤモヤが使われている現状をみて、なぜそのようなことが起きているのか、考えざるをえなくなった。

はじめに結論を言ってしまおう。エモいやモヤモヤという言葉は、左脳から来ている表現なのではないか。一見すると非常に右脳っぽい表現だが、実は左脳から来ている、というのがポイントだ。感覚的だからこそ、右脳で表現を為尽くすのが難しいのである。これを「物語れない」表現と名づけよう。

イスラエルの歴史学者ユヴァルノアハラリによれば、僕らが何かを経験するとき、「経験する自己」と「物語る自己」の二つの自己が存在するという。実際に嫌な経験(良い経験でもいい)をしても、「経験する自己」ではなく「物語る自己」が経験を評価してしまう、という話である。これは誰しもに身に覚えがあるのではないだろうか。

つまり裏を返せば、「物語る自己」が出てこない(つまり「物語れない」)とき、「経験する自己」がエモいとかモヤモヤと言っているのではないか、ということである。これは右脳的思考停止とも取れるし、逆に極めて純粋で感覚的な表現ともいえる。嘘っぱちはやめようぜ、ということだ。

なぜ現代において、このような感覚的表現が、前面に出てきたのだろうか。一つは「物語る自己」への懐疑的態度かもしれない。事実を重視するようになった結果、右脳的表現を忌避するようになった。エモいやモヤモヤという「生」の言葉の方が、信じられるのである。くどくどした修辞的な表現に、インチキ臭さを感じるのだ。

「経験する自己」による、左脳の取って出し、が好まれる。感覚を物語的に表現するのではなく、経験的に表現するよう変化したのだ。これからもっと新しい感覚的な「生」の言葉が生まれるのだろう。すこし寂しい気もする。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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