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おはようございます。きょうも書いていきます。

「縁」について考えている。「縁あって」「ご縁がなく」といった風に使われる、この「縁」という言葉。ときには「腐れ縁」などとも言われ、腐ってしまうものらしい。それではナマ物に近いのだろうか。この生きているのか死んでいるのかもわからない「縁」について、きょうは考えてみたい。

『新明解国語辞典(三省堂)』を引くと、「縁」は「①(仏教の思想から)ある運命になる巡り合わせ。②(婚姻・肉親・師弟の関係など)その人との生活と切り離すことが出来ない(人間どうしの)結びつき。また、その結びつきのきっかけ。」とある。

ここに一つの発見がある。僕らは普段「縁」という言葉を、「点」的にも「線」的にも扱っている。「縁あって」「ご縁がなく」は、①の巡り合わせの意が強いが、「腐れ縁」は②の結びつきの意が強い。「点」にも「線」にもなるということは、「縁」とはペンのインクのような存在なのだろうか。

そこで、②の「結びつきのきっかけ」という表現に着目したい。きっかけ、というのは「線」よりも「点」の方がふさわしい。②は「線」に見えるが、実際は「点」の連続であって、①と相違が無いのではないかと考えられる。巡り合わせ、結びつきを何度も繰り返している、ということではないか。

つまり、動いたり、生きていなければ、「縁」には成らないということだ。「縁」がなぜ腐るのか。それは結びつきの方に重みがかかっているためだ。切れたり、離れたりしている方が、新鮮なのである。止まってはいけない。留まってはいけない。

「これもなにかの縁ですね。」など、日常で「縁」について発言する機会は少なくない。その際に「縁」から、躍動感や生命力を感じられているだろうか。「縁」は固定されたものでも、確約されたものでもない。流動的であり不安定なものである。そこに安住しないことが「縁」を強くするのだろう。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。


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