肯定
おはようございます。きょうも書いていきます。
あまり老い若いで物事を語るべきではないと思うが、今の若い人たちを見ていて、気づいたことがある。自己肯定感がめっぽう強いのだ。今日はこれについて考えていきたい。
まず、あまり世代というのに拘らず、自分の若かったころを考えてみたい。やはり自己肯定感は強かったのではないか。ただしそれは、あれもやれる、これもやれるという肯定ではなく、あれもやれるかも、これもやれるかも、といった可能性の幅が、肯定感につながっていた気がする。何者にもなっていなかったからこそ、自らを肯定できていたのではないか。
翻って、今の若い人たち(こう言うとさも老害らしい)はどうか。こちらはあれもやれる、これもやれる、といった肯定に近い気がする。実際に彼らはYouTubeやTikTokで自らを配信するなど、具体的に行動しているのである。これが自分たちの頃とは、大きく違う点なのかもしれない。否応無しに失敗までを社会で経験しているからこそ、失敗への耐性が強いのだ。
二重否定が強い肯定となるように、失敗を失敗と思わないことが、肯定なのかもしれない。自分たちの世代は、先に述べたよう、可能性の幅というのが拠り所であった。失敗をしない(挑戦していないので当たり前だ)ことが、肯定の源泉であったわけである。つまるところ、失敗に慣れていないのだ。
一方で失敗に慣れると、それは失敗ではなくなる。矛盾するようだが、当人からすれば、失敗は最初から存在していない。頭の中に、否定という概念が生まれないのである。これが、自己肯定感の強さの理由なのかもしれない。
自分を含め、先人は若い人に「できないことを認めさせたい」という思考が働きやすい。しかしその考えは、そっくりそのまま自らに返ってこないか。社会に出ると、できないことばかりなのだ。
きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。