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弱さ

おはようございます。きょうも書いていきます。

弱い者がどうも苦手である。弱い者といっても、それは動物や子供といった非力なものではなく、また思春期の頃のような過敏さを持つものでもない。弱さを好物とする者が、どうも苦手なのだ。

強さとは弱さをさらけ出すことなのだろうか。自らの弱み、失敗談をつまびらかに語ることは、そんなにも勇敢だろうか。そして、語られた弱さに寄り添うことは、そんなにも慈悲深く、尊い行為だろうか。

弱いということが卑しく、いやらしく感じる。それは「共感」という値が、世間で語られ始めた頃からだろうか。ダメなボクも受け入れて、という袖を伸ばしたマスク姿のオトコが、あらゆる窓から顔を覗かせているのである。

強くあれというわけではない。しかし卑屈になることや、足を引っ張り合うのは違うと思う。いつのまに、ダメの連合体をつくろうとはしていないか。騙されるなかれ、胴元は儲けている。

弱さを道具にした時点で、すでに弱くはない。弱さとは、外に向かう力ではない。誰かに作用しようとしてするものではない。享受や共有ができるものではないのだ。常に自らの内面に生まれ、自らにのみ作用するものである。

いつからか、弱さが流通するようになった。弱い者を集める、通貨のような存在になった。やがてそれはぬるま湯を生み出し、誰も救わないような檻になっている。つづいては名前すら奪われたりしないだろうか。

弱い者は寡黙である。足りない者であるが、足りなさを嘆く者でも、吠える者でもない。知る者である。そして自らを、弱いと評価しない者であろう。つける値札すら手元にはない。

他人はそれを強さと呼ぶかもしれない。しかしそんなことは知ったことではないのだ。自らの外面に出して、語るべき対象とするべきでも、目的とするべきでもない。裏返した途端に、中身を溢してしまうだろう。

しまってとっておけばいい。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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