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接続的

おはようございます。きょうも書いていきます。

接続的な文章というのがある。どういうことかというと、たとえば、本文の冒頭にある「おはようございます。」というのは、読む人と書き手を接続する、ひとつの技法である。これは1年前に考えた末、糸井重里さんの文章を真似した。糸井さんの文章は接続的である。読む人がそこにいるという前提で書いている。

ツイッターもそうだ。ツイッターは告知ではなく会話と言われる。広告ではなく、PRと言われる。このちがいは、隣に人がいるかのように振る舞えるかの、想像力のちがいである。人によって得手不得手がわかれるのも、この差が大きいと感じる。

そして、僕はこれらが苦手だ。なぜ苦手なのかということに、頭を悩ませてきた。いまも悩んでいるので書きながら解決を試みている。

ひとつは、告知や広告は上からで、会話やPRは下から、という特徴にあると思う。広告的な考え方、というのは(あくまで従来の形であるが)上から落とす、という傾向が強い。マスメディアから物が言えるわけだから、当然である。振り返れば、この願望、また恐れや不安が自分の進路(広告代理店)を決めたのかもしれない。

またもうひとつは、こだわりのポゼッション、占有率とでも表すべきであろうか。簡潔に言えば、相手の気になる話題と、自分の気になる話題の、どちらを選ぶのかということである。これが自分側に寄るのが、自分である。(ある解析によると、ツイッターでのワード使用頻度の第一位が「自分」であった。! )

これらを統合すると「自分の話ばかりを上から落としている」という結果になる。接続的な文章との距離は、いかほどであろうか。前述の技法ひとつで補えるとは、到底思えないのだが、かといって変えたいのかと胸の裡に聞くと、そうでもないということなので、よほど性質が悪いのではないか。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

サポートありがとうございます。