自分も死んだ
おはようございます。きょうも書いていきます。
先日ある著名な方(Aさんと呼ぶ)のツイッターで「○○について皆さんどう思いますか?」という問いかけがされた。そのリプ欄を見て驚いた。「Aさんの答えを教えてください。」「わかりません。Aさんはどうですか?」
ツイートがされて、数日経っていたならまだ分かる。しかし数分後だった。すさまじい思考停止と感じた。Aさんの投げかけた問いも、何かそれらしい解答が用意されているような類でもなく、ただ漠然としたものだったのにも関わらず、速攻で答えを求めにいっている。それを見て僕は「考えようよ」というよりも「答えはこれだよ」が有効な選択ではないかと感じた。
すこし大きな話になってしまうが、ニーチェの「神は死んだ」あたりから、今に至るまで「自分」にフォーカスされた世の中に変わった。神様が決めてくれないから、自分が決める。自分の頭で考える。良いか悪いかを決めるのは自分であって、神様ではない。自分の感じた通り、気持ちのよいように、好きに生きよう。
それで100年近くやってきたけれど、最近の情勢を見ていると、無理な気がしている。オンラインサロンのようなコミュニティが盛んなのは、「答え」を用意してくれる教祖が必要だからだろう。神ではなく、神に近い他人に、良い悪いを判断してもらいたいのだ。つまり結局は「自分」で決めることを放棄してしまいたいのである。
資本が拡大しているときは矢印が一定方向にむかっていたので、「自分」で考えているように感じることができた。なんとなく暗黙の正解というものもあったのである。しかしそれが無くなると、難易度がかなり上がる。だから答えを他人に求めはじめたのではないか。
これから複数の教祖とそれに群がる信者に分かれると思う。教祖は神らしいジャッジをする。信者はこれまで、「君はどう思う?」「君の好きって何だろう?」という問いかけ(つまり牧師)に応えていたが、これからは「まず動け!」みたいな啓示(つまり神)に応えるようになるだろう。
自分も死んだんじゃなかろうか。
きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。