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流れて

おはようございます。きょうも書いていきます。

ちょっとしたこだわりについて。僕はnoteを書くとき、一部の文字を太文字にしたり、目次をつくったり、箱(あれ何て言うんだろう)の中に入れたりしない。それはなぜかというと、強調で伝えないと伝わらないというのは、スムーズに伝えられる余地がまだある、と思うからだ。会話をしていると、相手が急に大声を出したら、驚いて嫌だろう。そんな気持ちで書いている。

それから、同じことを書いたり(似たことはよくある)、昔に書いたことを固定したりすることもしない。それはなぜかというと、昔に書いた自分よりいまの自分を信じてみたい、という気持ちがある。進化しているかはわからないが、変化はしていると思う。もし仮に昔の自分の方がいいことを書いていたり、たくさんの反応を貰っていたとしても、諦めたい。そんな気持ちで書いている。

もしかしたらこのさき、そのやりかたをあらためようと思うかもしれない。それでもたぶん、上に書いてある考えかたは変わらないし、だからきっと、やりかたも変わらないと思う。どんどん流していきたい。流して、流して、最後には何もなくなってしまう。

ちょっと話は変わるけど、それは僕が死んだら散骨を希望するのと似ているのかもしれない。お墓やお墓に入ることに興味がなくて、死んでから誰かに訪れてほしいとも思っていない。別にそこにいないから、と思ってしまう。たとえ大層な杭やら石やらを打ちこんでいても、やっぱりそこにはいない。

だから書いているのもそうで、きょうまた僕はこうやって書くのだけれど、明日になればきょうの僕はもういないし、仮にそれをひっぱりだしてきて、「自分です!」と言われても全然しっくりこない。そういう意味で、何かを強く残したりすることに、興味が持てないのかもしれない。流れて流れて、何にもないのだ。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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吉澤 馨
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