見出し画像

決まり

おはようございます。きょうも書いていきます。

僕の生家には名前にまつわる不思議な決まりがある。まず名前は「訓読」でつけて「音読」ではつけない。たとえば、僕の名前は「けい」や「きょう」とは読まない。それは兄弟も同じである。

また、家のなかでも「くん」「さん」「ちゃん」など、敬称が用いられる。なので、小さいうちから今日にいたるまで、呼び捨てにされたことがない。

この決まりを、はじめは仰々しいと感じていたが、徐々におかしくなって、気に入ってきた。前者は和語へのこだわりであろうか。また敬称をつける、というのは個人の尊重への表れだと聞いたことがある。いずれにせよ自分の親らしく、また自分らしいとも思う。

社会に出ると(それは意外にも早く、幼稚園や小学校で)、親から呼び捨てにされている子や、音読みで名前を読む子と出会う。当時はどう感じたのか覚えてないが、すこし羨ましく思っていたようにも思う。なぜならその方が所有されている感じがしたし、カッコよかったからだ。

しかし、自分が親になったとき、自然と同じことを子どもたちにしているのに気づいた。もちろん妻の側はそういった決まりがなかったので、家のなかは半々になった。こうして慣習は混ざっていくのだろう。

いまでも街を歩いて、子どもが呼び捨てにされているのを見ると、ドキッとする。(さすがに訓読みか音読みかはすぐ分からないし、気にならない。)自分とちがうなと思いつつ、羨ましさがあるのかもしれない。呼び捨てには責任感の強い印象を受けるのだ。一方で独占欲や束縛も感じる。

その不安定なバランスのなかで、子どもは育っていくのだろうか。個人へと変化する前の、人の呼び方というのがあるのかもしれない。(そういえば、『千と千尋の神隠し』では「せん」から成長して「ちひろ」になった。)

そう考えると、また少し不安な気持ちになる。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

サポートありがとうございます。