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遺る

おはようございます。きょうも書いていきます。

誰に向けているのか、どこに遺したいのか、いずれも書いているとき、書くことから離れているときに抱く疑問である。大衆に向けて、身近の大切な人に向けて、人それぞれであろうし、その動機も様々であろう。最近ではよく「具体的に誰か一人をイメージしよう」「○○年前の自分にむけて書こう」といった技術も見かける。では自分ならどう考えるだろうか。

僕の書くときのイメージは、100年後や、1000年後の誰かに向けてだ。実際にこう書いてみると途方もないが、永く遺したいという欲望も自分のなかに見受けられる一方で、そのほうが「近い」という感覚がある。遠くに向けて考えているほうが、近い気がするのだ。

それは逆に未来のことを考えるとき、過去を遡ることから始めるのにも似ている。どの時代、どの国においても、どこかで人間は近くて、変わっているけれども変わらないから、それを信じて探しにいく。遠いことや途方もない場所へ向かおうとすればするほど、近くのものに必然性を感じるのである。

だから書くのも同じで、自分にとって近いことを書くというのは、100年や1000年後の誰かにとって近いことを書くということだ。「普遍的」と言ってしまえばそれまでかもしれないが、その100年や1000年という遠さの前提が欠けると、100日や1000日くらいの感覚で、自分にとって近いことを書いてしまう気がする。「すぐ役立つ」系の記事は大半がそれに該当するだろう。

Webで書く、というのも少し不安がある。Webだから永久に遺りそうだが、実際はそうじゃないかもしれない。サーバーがなくなったら、などといった心配もあるが、それより塵のような軽さを感じる。人間の妄想が具現化したクレジットの世界のような感覚がある。バブルの渦中にいるようだ。そこで何が遺るのか。もしかしたらバブルがあったという歴史的事実だけが遺るのかもしれない。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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