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「母」

おはようございます。きょうも書いていきます。

母の日にプレゼントを贈るとすぐに感謝の連絡が来た。母は「はじめて母のいない母の日だった」と書いていた。その響きが印象的で、母がいないとき母の日はどういう風に感じるものなのか気になった。いなくなった親にどういう感情を抱くのかを僕は知らない。

墓前をカーネーションで埋めたという話を聞いて複雑な気持ちになった。まだ傷は癒えないと言う母に、自分ができることは少ない。母という存在がどういうものかを理解しようとしている僕に、さらに母にとっての母がどういう存在であったかを想像するのは難しい。

「他者への没頭は、それが支援であれ妨害であれ、愛情であれ憎悪であれ、つまるところ自分からの逃避の一手段である。」これはアメリカの哲学者であるエリック・ホッファーの言葉だ。僕は最初にこれを読んだとき母は祖母に没頭しているのだと思っていた。

毎週、祖母の介護をするために長野へ向かい、入院したら見舞いに行くなど母は没頭していた。祖父からは「自分の人生を生きなさい」と言われたと話していた。次第に母のなかに祖母が存在していて、母自体の存在を感じる機会が少なくなっていたのではないか。

こうして自分の人生に他人(といっても親だが。でも親が一番他人だ。)が侵食していくことを僕がどう感じているのかまだきちんと言語化できない。ただ死してなお、母のなかの多くを占める存在である「母」は、やはり没頭の対象でもあると感じざるをえない。

親を大切にすることや別れた者を想うことに何の異論もなく、できれば素直に没頭できるような人間でありたいと思う。その一方でまだ母のなかで生きている「母」と、どう向き合っていくのがよいのだろうかとも思う。

そして書いていて感じたが、これもまた僕にとっての他者への没頭なのだ。なにかに執着することは自己からの逃避といえる。僕もまた母への執着から離れるべきなのだろう。(ちょっと重いな)

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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吉澤 馨
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