顔
おはようございます。きょうも書いていきます。
THE YELLOW MONKEYのプライマル。という曲の歌詞に、愛とか強調すると顔が変になるよ、というのがある。僕はたまにこのフレーズを、心のなかで繰り返す。愛とか強調する人は顔が変だ。
何を語り、何を語らないのか。愛を語る人は愛を語っているのか。そうではないと思う。愛を語る人は愛を語る自らを語っている。本当に愛を語る人なのであれば、愛については語らないだろう。
これは愛にかぎらない。何かを語るということは、その何かを語らないということなのだ。よくできたドラマでも、実生活においても、想像できはしまいか。好きや愛してるを強調する者に、主役は惹かれない。
ひるがえって今日、何かを語る人で溢れている。語ること自体に疑問を抱くのではない。語り方に不自然さを感じるのだ。顔に焦りが映っている。見ているこちらが不安になってくる。
人は自分にないものを叫びたがる。足りないと感じているものの名を呼びたがる。もし相手に与えたい、もしくは得てほしいと思うのならば、相手の口から言わせはしないだろうか。自らが強めるのではなく、相手から生まれるのを待つのである。
また、はじめから回答がわかっているというのも、心許ない。もし仮にその人が、愛でもなんでもいいが、何かについて知っていたり分かっているとして、その自分なりの思考を得るまでに、他人に示された回答がどれほど効力を発揮したか。
回答や結論というのは、無いはずである。以前、正しさを捨てる、というコラムを書いたが、あの意図は、正しいことはあれどそれを捨てよう、という行為の話ではなく、正しいことなど最初から無いのだ、という姿勢の話だ。
もし正しいことなど最初から無い、という姿勢を真に持っているのならば、相手に回答を提示すること、ましてや、それが結論だと思っていることが、いかに愚かであるかを知っているだろう。
顔は姿勢を表す。
今日も読んでくださってありがとうございました。よい一日をおすごしください。