現実を学ぶ
おはようございます。きょうも書いていきます。
ある小説を読んでいて、ふと気になったので、タイトル+実話、で検索してみた。すると、とあるブログにたどりつき、そこで最近の中学生から、この小説について実話かと聞かれることが多い、という記述を見た。しまった、と思った。
いま、嘘のなかの現実を信じれない。現実のなかの嘘のみ信じられるのだ。これはどういうことか。
先述の小説はフィクションである。しかしながら、当然、作者の経験は織り込まれているだろうし、その境界線は、どこからどこまでだといった分かりやすいものではない。まず、現実ではない、ということが重要なのである。
現実かどうかを疑う心のなかには、なにが居るのか。それは、現実から目を背けたい弱い自分である。表面的な事象が、現実かどうなのかを追いかけ、その奥に潜む真の現実から、逃れたいのだ。
現実を描くこと、ないし現実を観ることは安心を得られる。それは、実際に起きたことだから、説得力がある、僕らの心を鎮めてくれるものなのだと、確信を持てるからである。だが一方で、その現実から何を学べたのか、得られたのかということは、なおざりになってしまいがちだ。
つまり現実であることは、思考を停止させるのである。実際に起きたことだから、に勝る主張がいま、見つかるだろうか。癒しが、見つかるだろうか。いつのまにか、現実という麻薬に、依存してしまっているのである。それが一方では、現実逃避をさせているということに気づかずに。
真に必要なのは、対象が現実だろうと非現実だろうと、そこから学ぶことのできる現実ではなかったか。それは生きていく上での拠り所となり、指針となるものである。ただ目の前の快楽を生みだしたり、安楽を享受するためのものではない。現実は鑑賞する存在ではなく、滋養とするべき存在である。
それを抽出するためなら、いかなる対象でも構わないだろう。実話ばかりを追いかけない。現実を学ぶ方法である。
きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。