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キリと善意

おはようございます。きょうも書いていきます。

増税後、はじめて買い物をした。330円というレジの表記をみて、ずいぶん計算がしやすくなったと感じた。これなら小銭も増えなくてすむし、レジの人も楽になるだろう。すでに世間は電子マネー化が進んでおり、小銭の登場する出番は少ないが、さらにその機会が減るのかと考えると、あの募金箱に小銭は貯まるのだろうかと、余計な心配をしてしまう。

思えば、ドンキホーテのレジ横にある自由に使っていい小銭も、コンビニのレジ横にある募金箱の中の小銭も、要るも要らないも、どちらでもいいものという絶妙な立ち位置で、存在していたのだと思う。ちょうど、人が要ると要らないの境目に立たされたとき、忽然と姿を現す、浮いた踏み絵のようなものであった。

このように、小さいものはある日突然、姿を消すのだろうか。なにも小銭を撲滅しようとして施行された消費税10%ではないが、偶然に何の悪気もなくある日、街角に立つ者の場所を奪い取ってしまう。大きいものは大きいものなりの正義を持ち、それが世のためになるのだと信じて大鉈を振るうのだ。散るものには目もくれないであろう。

このまま意図的でもそうでなくても細かいもの面倒なものが消えていくと、何が残るのだろうか。このくらいならあなたにあげるよ、という卑しくも、着実に存在していた善意も消えてしまうのではないか。善意らしい善意だけのこり、適当でふわついた善意は消えていく。しかし善意とは、そのように軽率なものではなかったか。

何も正面切って「あなたは4円要らなかったので、4円寄付しました!」とは言われたくない。記録に残されたくもない。それはおそらく電子マネーでの割り勘もそうであろう。酒粕のような善意をたのしんでいたのだ。そして、「意外」なことに、それは世界のどこかや、遠くの未来で役に立っていた。

あまりキリよくなると、小市民には野暮になる。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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