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賭ける

おはようございます。きょうも書いていきます。

書くことは何かを閉じこめたり、できなかったこと、送れなかった日々を取り戻すためにあるのだと思う。この1年で学んだことだ。誰かと物理的や精神的に別れ、その人を残したいという気持ちが、原動力になる。ではどう残したいのだろうか。理想のままの状態で、琥珀の化石のように残したいのか。もしくは変化に長けた、人工知能のようなものとして残したいのか。

おそらくそのどちらも可能なのだ。なぜなら、変化するのは受け手だからである。書いたものは動かない。しかし、読む人は動く。だからあとで読み返したときに、書いたものとあわせて、変化しているのである。自らと書いてあるものの中間に、実の部分があるのだ。

動的なものより、静的なものを好む理由も、ここにあるだろう。動いているものは実感を得やすい一方で、それが当人によってなのか、別の要因によるものなのか、見当がつきにくい。見誤ってしまえば、己の変化を拒む言い訳にもなる。むしろ、見誤りたいというのが、多勢なのだ。

だから静的なものを進んで、残す。あの日の自分や、誰かを閉じこめているようでいて、実際は解放している(したい)のかもしれない。本当の意味でダイナミックに、今あるものだけでなく、先の、未来の自分に賭けて、わざわざ動かないものを選び、残しておくのである。それは勇気の要る行為といえる。

後悔や過去やいまを書いているようで未来を書いている。あたりに残しておくことで中心をまわる自分を写しだすのだ。地動説のような技法である。明日、もしくは1ヶ月後、もしくは1年後にそれを見返したら、顔から火を吹くかもしれないし、にやりとほくそ笑むかもしれない。いつも似たような感想はないのでしょう。

もちろんこの書くを、つくるに置き換えてもいい。未来に賭けて、つくればいい。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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吉澤 馨
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