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弱いからカッコいいへ

おはようございます。きょうも書いていきます。

さらけだす、や、弱みを見せる、が漸く一段落して、世の中はカッコいいに向かっていると思う。それはなぜなのか、なぜそう感じるのかを、きょうは考えてみる。

先日、R25でGLAYのTAKUROのインタビューがあって(こういうのはスマホがなくてもキャッチできる。)、俺が尊敬してるリーダーたちは、みんな「感情にムラがない」ですね、という言葉があった。

自分の気分や感情を一方的に押しつけないことが、相手への何よりのリスペクトだからです。と語るTAKUROに共感した。自分の感情を相手に押しやるのは、一見すると、ありのままで美しい行為のようにも見えるが、それは2〜3歳の子どもと何ら変わりないのだ。

僕も振り返ってみると、尊敬する人たちはみな、ムラがなかったと感じる。たしかに弱さを見せてくれる人も魅力的ではあったが(そしてそれを自分も真似ていたし、それしかできなかった。)、それは突き詰めると甘い考えであったと指摘せざるを得ない。どんなときでも顔色一つ変えず淡々とできる人をつまらないと感じながらも、僕はカッコいいと思っていた。

周囲に頼ることは、悪いことではない。しかしながら、誤解があると思う。それはいつのまにか「できないことを認める」のが、免罪符のようになってしまったことだ。たとえば朝起きれないとか、約束に遅刻してしまうような行為が、ダメで弱い自分を周囲と一緒に許すことに、直結するようになってしまった。

だが、手段と目的が逆なのだ。自分の感情をさらけ出すことや、弱い自分を見せることは、手段であって目的ではない。TAKUROが言うように「チームに迷惑をかけないため」の手段なのである。ただ認めるだけなのと、認めて用いているのには、雲泥の差がある。

つまり思惑通りに感情をコントロールできること、その感情を用いて周囲に働きかけられること、これが社会での人間には必要なのである。そしてそれができる人を、僕らはカッコいいと感じないだろうか。

手段がコモディティ化すると目的に化ける。あらためて手段に回帰していると、いま感じる。感情をあつかえるカッコいい人に、惹かれるのだ。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

※参考にしたTAKUROさんのインタビューです。


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吉澤 馨
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