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変わる

おはようございます。きょうも書いていきます。

「俺が悪かった、明日から変わる」という宣言は、「太ったから、明日から痩せる」のと大差ない。べつに明日からでなくて今日からでもよいのだが、なぜこのように「宣言」する人に限って、結果、何も起きないのだろうか。そのことについて今日は考えてみる。

まず一つ目に考えられるのは、「宣言」という行為自体の軽薄さ、である。「書く」こともそうだが、「言う」ことは行動の一つに数えられる。「俺は変わる」と宣言することは、立派な行動なのである。が故に、それですでに満足している可能性はないだろうか。行動することに重きを置いているからこそ、宣言したという事実にさえ、安堵を覚えるのである。

またもう一つ考えられるのは、「宣言」を行う相手が身内という限定された対象だからである。もしこれが全国放送で、「明日から変わります」と宣言せざるをえなければ、どうなるだろうか。もちろんそれで変わってない人もたくさんいるのだが、身内よりはプレッシャーにならないか。安全圏でいくらのたうちまわっても(あるいはフリをしても)、報われにくいのである。

こうしてみると、宣言というのは「身内に」「言って」満足するので終わるという特徴があることに気がつく。そのいずれもが限定的、つまり狭く短い範囲なのだ。井戸のなかの水を、こそこそと泳いでいるのに過ぎない。大海に漕ぎ出そうという気は、毛頭無いのである。

一方で、広く長い範囲で捉えていればどうなるか。それだと恐らく「公に」「言わず」満足できるのではないか。満足という表現も似合わない。それが自然ということなのだ。誰それに言わなくても問題ない。反応を求めないのである。

つまり「変わる」は宣言した瞬間、失敗に終わる。スケールが一気に小さくなるからだ。「身内」で終わらず「言わず」とも満たされる。その状態に図らずも成るとき、結果「変わっていた」というのが真理であろう。「変わる」うちは変わらないのだ。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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吉澤 馨
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