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おはようございます、という時間でもないですが、きょうも書いていきます。

鳥になると癒されますよとアドバイスされたことがある。そのときはあまりピンと来なかったが、いまはわりとしっくりくる。鳥でなくても、誰かになると癒されるのだ。

はじめはストレス解消のようなものかと思っていた。自分ではない誰かになって、自分らしくない振る舞いをすることは、日々の抑圧から解放される、儀式のようなものに思える。たしかに僕らは普段からさまざまな場所で少しずつ役柄を変えて、生活している。SNSのアカウントは想像に難くないだろう。

一方でたとえば仕事で疲れて、家に帰ってきたとき、上着ごと自分を脱いでしまうのが快感という人もいる。誰かになるのではなく、自分に戻るというのが、癒しになっている人もいるのである。

このあたりは平野啓一郎さんの「分人主義」が詳しいが、どの人格もが自分であるという考え方から、それら人格と人格の間にある、癒しや解放の感覚に、注目してみるのはどうだろうか。つまり人格の「差」に、僕らは魅力を感じるのではないかという仮説である。

小さな頃はいろいろな「ごっこ」で遊んでいる。目に見えるものすべてに好奇心が湧いて、何にでもなってみたくなるのだ。それは大人になってから求められている「役割」とは遠いところにある。相手や周囲に関係なく、「分」かれること自体に魅力を感じているのである。

そもそも何か外的なものに影響されてだったり、ある場面で必要とされて、人格を使い分けているように思える僕らだが、実際のところは単純に楽しいからや気持ちいいからなど、生理的な反応を求めて、変身しているのかもしれない。トランスのような体験も、近いといえるだろう。

こうして化の皮をかぶり、剥いで、生活を続けている。その「差」で癒している。そこに大きくて仰々しい目的がなくても、ただ鳥になるだけでもよいのである。

今日も読んでくださってありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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吉澤 馨
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