怒りの色
おはようございます。きょうも書いていきます。
Netflixの番組表で怒りの色を知る。薄々勘づいてはいたが見ないフリをしていたもの。見ないフリ、というのは聞こえを良くしたいだけであって、もとから見えていなかったもの。それは日本にいるからとか、平成であったからとか、言い訳はいくらでも用意できる。差別というのが何であるかを、知らなかった。そしていまも大して知らない、というのが正直なところだ。
ボーダーレス、NO BORDERと、最近の僕らは境界線を失くすのが好きだ。人種を超え、国境を超え、性別を超え、障害を超えていく。その一方である疑問が生まれる。そんなに境界線を意識するようなことが、今までの人生であっただろうか。僕が知っているのは良い学校に行って良い会社に入ると、良い感じの優越感に浸り、人を蔑む暮らしができるということくらいだ。
誰のための線であったか。それは自らをグループに入れないと安心できない臆病者のためであろう。自分は○○である、という誇りが、弱い自我を保つために必要だった。ボーダーは弱者を囲い、虐げるためではなく、弱い強者を囲い、守るために存在していた。真に弱い者の防波堤だった。それがいま消えようとしている。消そうとしている。本当にそうなのか。
もし仮にすべての線が消えてしまったら、自分を保てるだろうか。これまで自らを○○である、としてきた拠り所が消えてしまったら、今までのように自らを尊敬し、愛することができるか。自分以外のものに執着して、価値を感じ、信じ続けてきたではないか。それが自らを証明する唯一かのように、扱ってきたではないか。
僕はもう一度新しい地図を作り直すのではないかと思う。これまでの分け方ではなく、別の分け方をするのだ。カドが立たないよう、でも極めて明確に区別するのではないか。いままでは目で認識ができた境界線が、これからは識別できなくなる恐れがある。そのとき怒りを知ることができるだろうか。
きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。