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なんとなく

おはようございます。きょうも書いていきます。

十数年前にブログが登場して、人々が思い思いの心情を書いて、遠くにいる人が、涙した。やがて世界は近くなって(それは情報量的にも、物理的にも。)、動画で知ることができたり、実際に会うのが容易になった。いまや心情を共有するという行為はあたりまえで、社会全体がお悩み相談室のようになっている。しかしながらちゃんと喋れている人は、ほとんどいない。

たまに演劇を観に行ったりすると、よくわからないけど泣く、ということがある。話の筋が、役者の演技が、というのもあるが、それ以上に、場の雰囲気に呑まれてしまっているのが大きい。人間は空気中を媒介して、心情を伝えることができるのかもしれない。もしくは周囲の人間の心情と共鳴して、自身も似たような気持ちになるのかもしれない。(もらい泣き、というやつだ。)

それが、YouTubeやオフラインコミュニティといった場に、応用されているのだと感じる。なんかよくわからないけど泣く、感動する。あなたのことがわかった気がする。しかし本当にそうなのだろうか。一時的な、薬物依存症の患者を医療用大麻で解放するような、対処療法になっていないか。伝える伝わるといった状況から、最も遠い場所にいると思うのが、今日である。

本来、何かを伝えるや、何かが伝わるという行為・現象は、自分を介して行われるものである。つまり自分自身が思考していなければ機能せず、理解していなければ伝達することはない。言葉に書き表わす、という行為には、考えるという段階と、分かるという段階の2つが含まれている。これが結果として、他人にも自分と同じ体験が伝わる、という現象を引き起こしている。

なんとなく会えば、なんとなく泣ける。その行為を否定はしない。しかしながら、それは互いを前に進めているだろうか。群れになり、直接触れあいながら、心情を共有するだけでよいなら、それは数百万年前と変わらなくないか。

今日も読んでくださってありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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吉澤 馨
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