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おはようございます。きょうも書いていきます。

昔、中国に住んでいたとき、向こうの雑誌か新聞で、好きな日本の小説ランキングというのを見た。1位から5位まで、すべて推理小説だったというのが記憶にある。事件が好きな国なのか、と思うと同時に、感受性を疑う印象を抱いた。当時、刺激に刺激を覆いかぶせるような日々に、疲弊していたというのもあるかもしれない。

やがて日本に戻り、売れ筋の小説を気にすることはなかったが、日々流れるSNSの話題を見て、同じ感想を持つ。事件が好きなのだ。お国柄というのに関係はない。

数年前、「共感」という言葉がキーワードになった。今でもたまに、流行語が遅延する田舎の学校のように、どこかでぽっと出ては消える。あの頃、「共感」という言葉をもっと疑えばよかったと思う。「共感」しているのではない。野次馬根性で現場に駆けつけているだけなのだ。

何か突飛な出来事が起こる。それを可哀想とか、悲しいとか、怒りを覚えるとか、様々な言葉や表現で飾り立てるが、同じ心境になっているわけでも、寄り添おうとしているわけでもない。たしかに難しいことだろう。しかし簡単に「共感」という言葉を使う。

もし仮に「共感」を真に抱くのだとすれば、それには多くの時間を要するだろう。失ったものを感じとるのに、だいぶ時間がかかるように、いずれの感情もすぐには姿を見せてはくれない。当人ですらそうなのだから、周囲はさらに時を必要とするのは想像に難くない。

しかしながら「共感」という行為そのものが先走り、それが数としてカウントされ始めると、感情は置いてきぼりになった。タイムラインは感情を待つことはなく、馬車馬のように走るだけである。

事件ばかり追いかけても、あとに残るのは砂塵と、泥土にまみれた我のみである。いくらその泥を捏ねくりまわして、感情を名づけたとしても、もって数ヶ月というところであろう。

事件に狂騒し続けるばかりでいいのだろうかと、隣国を鏡に見立てながら、思う。

今日も読んでくださってありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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