知らないこと

おはようございます。きょうも書いていきます。

答えや解き方に近いことは望ましいのか。これは僕が長年考えてきた疑問である。発端は中学の数学であった。それまでの小学校の算数とは異なって、つまらないと感じたのである。公式を覚えれば誰にでも解けるという考え、教えは、解いている時間を楽しむというよりも、解けたことの快感を楽しむというように、感じられたのである。

本を読み、知らない言葉に出会ったときも近い。まず、部首を引き、そこから音と訓を確認する。しかしながらインターネットを使えば、なんとなくの検索で、答えに出会えてしまう。調べている過程を経ておらず、有り難みは少ない。読めないものが読めたという感動よりも、読めてさも当たり前のような、冷たい感覚がそこにあるのだ。

先日ある番組を観ていると、誰でも情報にアクセスできるようになったから成功する人が増えた、という話をしていた。以前なら閉ざされた世界の門戸を叩くほかはなく、情報は幽閉されていた。そこに手を伸ばせた者だけが、成功者になれるということであった。しかし、情報に触れること=成功、という短絡的な捉え方でよいのだろうか。

中学の頃にもどると、僕は公式をはじめに覚えることはしなかった。公式を証明することに時間を費やした。これは恐ろしく効率が悪かった。しかし、一度証明するまでに辿り着くと、あとが楽だった。初速は誰よりも遅いが、後半からは早い。

いまでも公式めいたもの、簡単なものを目の前に出されると、抵抗がある。答えや解法に触れることが完成ではないのだ。効率の悪いギザギザした道を歩く。きっと公式を生み出した人が歩いたであろう道を自分でも歩くのだ。それが僕にとって完成を意味する。

できたことよりも、できていないことの方が楽しい。道はまだ続いている。知らないことを好きでいたいと思う。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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